第15話 人質生活のはじまり
なかなか寝つけず、いつごろ眠ったのかも覚えていなかった。
目が覚めたら朝で、喉がからからだった。
水を求めてリビングに下りると、乃雨がキッチンで朝食の準備をしていた。
「ちゃんと一人で起きたんだ」
フライパンの卵焼きをひっくり返していたところだった。彼女の車椅子は、まるで理髪店の椅子のようにキッチンの高さに合わせて、座席がせり上がっていた。
「もうすぐ朝食ができるわ。顔を洗ったら、そこに座って待ってて」
味噌汁のいいにおいがした。いつも朝はトーストだから新鮮だった。
ダイニングの椅子に座って待っていると、乃雨が車椅子にトレイを載せて朝食を運んできた。白飯とだし巻き卵と味噌汁だった。最後にコップに入った水をテーブルに置いて「どうぞ、めしあがれ」と言う。
おいしかった。味噌汁はインスタントではなく、ネギやタマネギや豆腐をしっかり食べやすく切り分け、だし巻き卵は焦がさずきれいに焼けて味つけも完ぺきだった。
食べるのを乃雨は黙って見ていた。やっぱり感想くらい言ったほうがいいだろうか。口の中のものを飲み込み喋ろうとすると、乃雨から先に話しかけてきた。
「食べ終わったら、パソコンとか必要なものを調達しにいくから、ついて来て」
「外出してもいいのか?」
「もちろん私の監視下でよ」
「もし脱走したら?」
「晩ごはん抜き」
ジョーク……なのかな。夜は少ししょっぱい味噌汁をすすりながら、そっと横目で乃雨を窺った。やはり一度失敗したからか、まったく油断する様子がない。まるで看守のように、食事する手の動きを注視していた。
朝食を済ませると外に出た。
すかっとした快晴で、昨晩よく見えなかった街並みもはっきりと確認できた。
白い外壁の住宅が、等間隔に並んでいた。住宅はどれも箱のように四角く、画一的だ。無個性ともいえるが、どこか空想的でメルヘンチックでもあった。
乃雨の家も玄関から出ると、駐車スペースも兼ねた庭だった。
なにもない庭だ。鉢もプランターも花壇もない。雑草も除草剤をまいているのか、ほとんどなかった。
徹底しているのは、玄関から出てきた乃雨を見て納得した。彼女は車椅子でスロープを下りてきた。車椅子の邪魔になりそうなものを、すべてとり除いた結果なのだ。
今日の乃雨は、グレーのハイネックのセーターに黒色のミニスカートという服装だった。やはりタイツははいていた。大人びたワインレッドで、すらっとした彼女の脚をよく引き立てていた。タイツをはくのは脚を隠す意図なのだろうか。あまりじろじろとは見れないが、彼女の脚は筋力を失い、かなり細いのがわかった。
「神楽だ」
夜は言った。
「へえ、知っているんだ、街の名前」
「『ヘドロ王物語』にも登場する。ヘドロ島の首都で、ヘドロ王が名づけた」
「あんな子供だましの本、読むんだ」
大学生のくせに、と彼女が小声で言ったのを聞き逃さなかった。
慣れた様子で乃雨は、庭を車椅子で横断した。まったく他人を頼るそぶりも見せない。夜を追い越して、一人で通りに出て行った。
「手伝おうか」
「なにをするの!?」
車椅子のグリップを握ると、体でも触られたように驚いた乃雨がふり返った。
「押すよ。迷惑だったらやめるけど」
「め、迷惑じゃないけど……」
「おいしい朝食のお礼だよ」
「そ、そう。それなら、いいわ」
乃雨は動揺を隠すように前髪を触ると、前を向いた。
そして小声だったが「ありがとう」と言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます