第11話 東のマギ
マギの顔から笑みが失せた。通りの方向を無言で見る。
「音を聞かれたな。ビルの中に隠れろ」
なぜシートの向こう側が見えるのだろう。つくづく不思議な女だ。しかしここは彼女を信じ、ビルの中へ入った。
ビルの内部は工事中で、がらんとしていた。隠れる場所なんてありはしない。マギもしまったという顔をした。
足音が聞こえた。やつらだ。
夜は床に落ちていた角材を拾い上げた。
「敵は三人だ。二人は建物のまわりを調べていて、一人がこっちに近づいている」
壁に張りつき待ちかまえていると、マギがぴったりと体を寄せてきて告げた。
「一人か……なら、なんとかなる」
「敵が入ってくるタイミングを教えてやる。うまくやれ」
敵は足音を消して近づいていた。マギの声だけが頼りだった。
残り五メートル、四メートル、三メートル……。
敵との相対距離をマギが逐一報告した。
夜は角材を握りしめた。残り一メートル……。そうマギが耳元でささやいた。心臓が高鳴る。
「来る」
その瞬間、夜は飛び出した。マギを信じて、暗闇に向けて角材をふるう。
手ごたえがあった。
うっ、という男の声も聞こえた。
ちょうどシルエットから、喉のあたりに命中したらしかった。あてずっぽうに顔面を狙ったが、そこそこの精度だ。
攻撃の手は休めない。はっきりと敵のシルエットを確認してから、すかさず膝に角材を打ちつけた。
まるで防犯ブザーでも押したような悲鳴が響いた。
膝の少し上は『伏兎』という経穴(ツボ)である。どんなに屈強な男でも、激痛でもんどりうって倒れる。
相手は崩れ落ち、床に両手をついた。
さっき二人いたうちの片方か? いいや、ちがう。誰なんだこいつ――。
男はタクティカルベストを着ていた。まるで特殊部隊かなにかだ。
「アーロン、こっちだ!」
男は叫んだ。
近くに仲間がいるのか。
そのときだった。一瞬の隙をついて、男が果敢にもタックルを試みてきた。
夜は床に倒された。しかし逆に男も両手がふさがり無防備になる。男の頭部を角材で攻撃してやった。すると自分の頭を守るために、男は夜の腰から両手を放した。その隙に夜は立ち上がり、ビルから脱出した。
まだ近くには、さっき倒した男の仲間がいるはずだった。もうやるしかない。出くわした相手を片っ端から叩く。
なんのための無泰流棒術だ。ヘドロ王になれ!
あれ……マギは?
ふり返ってもいなかった。まだビルの中にいるのか。
引き返していっしょに逃げるべきか。いいや、待て。さっき知り合ったばかりの他人じゃないか。なぜリスクを冒して戻らないといけない。
などと考えていたときだった。
ビルとシートのあいだにある生垣の陰に、奇妙な黒い塊を見つけた。最初はただの黒いゴミ袋だと思った。しかし、もぞもぞと不規則にうごめくことから、生き物が入っているとわかった。
中から奇妙な音が聞こえてきた。さー、さー、さーとまるで静かな夜の森に、風が吹き抜けるような音だった。
なんなんだ、あれは。夜は角材をかまえた。ゆっくりと近づいて、正体をたしかめようとした。
ゴミ袋ではない。あれは黒いローブのような服なのだ。そして中身はゴミではなく、人間だ。ひどく腰の曲がった小柄の老人だ。風の音に聞こえたものも、老人のかすれた声だった。
爺さんか婆さんかまではわからなかったが、とにかくその老人は、なにかを夜に話しかけていた。
いつからいたんだ。さっき通ったときはいなかったずだ。
ふいに地面が揺れた。
地震ではない。空からなにかが降ってきて、近くに着地したようだった。
暗くてはっきりとは見えなかったが、降ってきたのは人間とよく似たシルエットだった。だがビルの三階くらいの高さがある。
夢か? 幻覚か? 本当に自分がちゃんと覚醒しているのか、いよいよわからなくなってきた。
「動くな!」
いつのまにか赤いバンダナの男が近くに立ち、拳銃を夜に向けていた。
「待って、銃はだめ」
スピーカーを通して女の声が聞こえた。その声に聞き覚えがあった。
昨日、大学でビラを求めてきた車椅子の女性、月島乃雨だ。
「おとなしくて。危害を加えたくない」
なんで彼女の声が、あの巨人のようなシルエットから聞こえる。なんで自分を襲う。いったい彼らは何者なのだ。
夜の思考は完全に停止した。
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