第19話 ヘドロ島の戦争(後編)

 ふと胸の負荷が軽くなった。楽になった肺に大量の空気が流れ込んでくる。半分抜けかけていた魂が返ってきて、視界にも明るさが戻った。


 上に乗っていた機動隊員が首をもたげ、横を向いていた。


 夜もそちらに目を向けた。


 もう一人の機動隊員がなぜか地面に倒れていた。少し目線を上げると、黒いローブと金色に輝く蛇の刺繍の入ったポンチョが見えた。


 立ち上がった機動隊員が、ライオットシールドをかまえ、黒いローブの女に近づいた。女は表情一つ変えず、右手をおもむろに前へ出した。そしてその手でライオットシールドに軽く水平チョップした。


 たったのそれだけだった。それなのに機動隊員は、まるでバットの芯を外した打者のように、ライオットシールドを地面に落とし、痛そうに手首を押さえた。


 マギだった。


 なぜ彼女がこんなところに?


「あらゆる物体には固有の共振周波数がある。たとえば手首なら80Hz、つまり一秒間に八十回の振動で共振する」


 のん気に喋るマギの前で、機動隊員が特殊警棒をとり出そうとした。


 危ない――。

 夜は叫ぼうとした。だがうまく声が出てくれなかった。


「脳は120Hzで共振する。私はその周波数を送り込むだけだ」


 マギは機動隊員の額にした。すると魔法にでもかかったかのように、彼の目がくるっと裏返った。そして膝から崩れ落ちるのだった。


「うっかり加減をミスすると、脳がクリームシチューになるが」


 ラメ入りの口紅できらきらと光る唇を、マギはぺろっと舐めた。それから「私はなにもしていない、いいな?」と唇の前で人差し指を立てた。


「……おまえ、何者なんだ。なんで助けてくれる」


「私はただの観測者だ。だから私のことは気にしないでほしい」


 気になるに決まっているだろ。夜は心の中でツッコんだ。


 あおむけに倒れた乃雨を抱き起こした。すると彼女は、自分のことよりも車椅子を気にした。


 夜は車椅子をとりに向かった。起こして廃屋の中へ運ぼうとするが、故障して動かなかった。どうやら倒れたときに車輪が壊れたらしい。それを乃雨に伝えに戻ると、彼女は無言で目をつぶった。


「ここじゃダメだ。どこか安全な場所を探さないと」


 夜は乃雨の腕をつかんだ。しかし彼女はその手をふり払った。


「一人で行って。私は足手まといだから」


「いじけている場合かよ。一人じゃなにもできないのに」


「ええそうよ、私は一人じゃなにもできない」


 乃雨は両手で顔を覆い、唇を強くかんだ。

 

 傷つけるつもりで言ったんじゃない。夜は弁解しようとしたが、あとの祭りだった。


 なにをやっているんだ、おれは。自分のバカさに腹を立てた。


「さっさとしろ。新手がやって来るぞ」


 崩れた壁のすきまから外の様子を窺っていたマギが言う。


 まだ外には大勢の警察官がいる。全方位から聞こえてくる犬の吠える声で推測できた。


「私のことはいいから、あんたは逃げて」


「置いて行けるわけないだろ」


 夜はもう一度手を伸ばした。しかし目に涙をためる乃雨は、首を横にふった。


「どうして私はいつもこうなの……いつも誰かの重荷になって」


「そんなことはない」


「そんなことあるわよ。本当ならみんなを救えたのに……この脚のせいで!」


「だったら這って行け」


 マギの辛辣な言いように、夜のほうが驚いた。


「そんな言いかたはないだろ」


「すまない。観測者が口を出すべきではなかった。ついイラっとしてな」


「あの女の言うことなんか気にするな」


 なんとか乃雨を励まそうとする。だが言葉など意味を持たなかった。いま彼女に必要なものは脚なのだ。


「おれが連れて行く」


 夜は乃雨の腕をとった。その腕を自分の肩にのせて引っ張り、彼女の体を強引に持ち上げた。


「ちょ、ちょっと」


 乃雨は慌てた。


「格納庫までどれくらいだ」


「一キロ弱……ってちょっと待って」


「安心しろ、絶対に落としたりなんかしない」


「そ、そういう問題じゃなくて」


 乃雨の声が小さくなった。自分の姿を想像したのだろう。同年代の男におぶられるのだ、恥ずかしいに決まっている。背中に顔を埋めるのが感触で伝わった。


「外は危ない。ここでじっとしているほうが安全だと思うが」


 マギが言った。


「おまえはそうしていろ」


「次は助けないぞ」


「いつ助けてくれなんて言った」


 扉のなくなった入り口から顔だけを出し、安全を確認した。見える範囲で人間の姿はない。しかし警察はまちがいなく周囲を警戒しているはずだった。


 夜は廃屋から飛び出した。とにかくなにがあろうと走りぬける作戦だ。乃雨のぶんだけ体重も責任も重くなった。


 通りに出ると、さっき催涙ガスで通れなかった交差点を突っ切ろうとした。


「おい止まれ!」


 さっそく怒声が飛んできた。左手側の通りに数人の機動隊員が立っていた。道路を封鎖するために警察車両が横に停車していた。催涙弾を発射するグレネードランチャーを装備した隊員もいた。もうやるしかない。


「しっかりつかまっていろ」


 夜はギアを上げた。


「追ってくるわ!」


 乃雨の声が聞こえたが、ふり返る勇気はなかった。


 まるで興奮剤を打たれた馬のように走り続けた。乃雨も乃雨で、鞭でも打つように「もっと速く!」と煽りたてた。


 肺が爆発するように暴れ、脈打つたびに目の奥でチカチカと真っ白な花が咲いた。いつしか乃雨の重みも感じなくなり、脚の感覚もどこかへ行って、まるで宙を浮いている感覚に陥った。


 どれくらい走ったのかもわからない。ひゅーひゅーと渓谷に吹きすさぶ風のような音が、喉の奥から鳴り続けた。もう限界だ。そう思ったときだった。


「夜、避けて!」


 乃雨が耳元で叫んだ。もしかしたら何度も言っていて、いま初めて聞こえたのかもしれない。いつのまにかトレーラーがすぐ近くまで迫っていた。夜は道路のほぼ中央を走っていたが、もう進路を変えるだけの力も残っていなかった。

 

 トレーラーのほうが路肩にはみだして夜を避けた。それからブレーキ音を響かせ、夜の背後にまわりこむと、追っ手から守るようにして停車した。そこで夜は力尽き、乃雨を落とさないようにうずくまる態勢で倒れた。


「乃雨ちゃん!」


 トレーラーから丸メガネをかけた男が降りてきた。彼もタクティカルベストを着ていた。


「九条さん、早く私をEXOエクソギアに」


 乃雨は訴えた。その直後、ケーキの入った箱でも開けるように、トレーラーの荷台の天井が機械音をたてながらゆっくりと開いた。


 体がふっと軽くなる。丸メガネの男が乃雨をかついだからだ。


 男は乃雨をトレーラーの荷台へ運んだ。荷台には見覚えのあるシルエットが横たわっていた。きっと乃雨が格納庫に行きたがっていたのは、これのためだ。


 鋭角なデザインは、まるで甲冑をまとっているようだった。白色を基調とした品格のあるカラーリングは、まるで高潔な騎士を連想させる。これがヘドロ島の切り札だったのだ。


 トレーラーの荷台からその“騎士”は立ち上がった。追いかけてきた機動隊員たちも、口をあんぐり開けているのが見えた。


 ヘドロ王には巨人の騎士が仕えていた。


 誇り高き巨人族の戦士で、魔女ミュールスにいざなわれ、島に上陸したヘドロ王が、ミュールスの次に加えた仲間だ。


 その名前は……。

 

 乃雨の声が聞こえた。それが現実なのか幻聴なのかはわからなかった。

 ただ労わるような優しい声で「ありがとう、夜」と言ったのがわかった。


 それを聞いた直後、夜の意識は底なし沼に引きずりこまれるのだった。

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