第18話 ヘドロ島の戦争(前編)
ノートパソコンを机に放り投げたまま、夜は自室のベッドに寝そべっていた。
(さて、これからどうしよう)
ここから逃げるのは難しくない。乃雨は車椅子だ。二階には上がってこられないし、いつでも窓から脱走できた。
(この島で暮らす、か)
そういえば小学生のころ、酔った父親からギャンブルで負けた腹いせに殴られ、友だちの家から金目のものを盗んでくるまで帰ってくるなとアパートから叩き出されたことがあった。
あの日、本気でヘドロ島まで歩いて行こうとした。
しかし子供だった自分にはあまりにも遠かった。
引き返そうにも現在地すらわからなくなり、結局暗くなってから交番へ駆け込み、晴子に迎えに来てもらった。
ヘドロ島は最後の楽園――。
乃雨は言った。実際そうかもしれない。
もしも島が警察に制圧されたら、楽園は失われるだろう。
そうなったら哲治のような人間は、どうするのだろうか。
彼のごつごつした手の感触を思い出した。
いや、やめよう。
乃雨には悪いが、タイミングを見て脱走させてもらおう。
あんなことを言っていたが、東京へ戻る方法はあるはずだ。
でもそれで本当にいいのだろうか。
姉とここで暮らせば?
そう言った乃雨の顔を思い出した。
いまこそ『原始の炎』を求めるときじゃないのか。
ぐるぐると頭の中で思考がまわった。
そのうち夜は眠りに落ちた。
窓ガラスが揺れる音で目を覚ました。
地震か。
しかし小さい。
また眠ろうと寝返りをうった。
いや待て。
ここは人工島で海の上だ。地震で揺れるわけがない。
悲鳴が聞こえてきた。
夜は飛び起きた。
窓に駆け寄り、外の様子をたしかめた。
二百メートルくらい先で煙が上っていた。
足元では住人たちが、どこか落ち着かない様子で、道を行ったり来たりしていた。
なにか異変が起きたのだ。
一階へ下りると、リビングで乃雨がスマホに向かって話していた。夜に気づくと、またかけなおすと言い通話を切った。
「緊急事態よ」
夜に言うと、彼女は慌ただしくキッチンまで車椅子を移動させた。
「なにがあったんだ?」
「島と東京を結ぶ桟橋から、機動隊が上陸してきたの」
「こんな急に?」
「急だから効果的なんじゃない。予告して来てくれたら、どれだけ助かるか」
キャビネットの引き出しから、彼女はなにかをとりだした。
それがどう見ても拳銃だったので、夜は唖然とした。
「あなたは家にいて」
「そっちはどうするんだよ」
「戦うわ」
「その脚で?」
言ってすぐに後悔した。
とり消そうと思ったが、乃雨は気にするそぶりも見せず、車椅子を玄関まで走らせながら、自分に言い聞かせるように言った。
「みんな混乱してて、迎えの車も来そうにない。自力でなんとかしなきゃ」
「車椅子なら押してやるよ」
「だめよ。あなたは部外者だし、危険にさらせない」
「気にするな」
本当の理由は、外に出る名目が欲しいからだった。
車椅子のグリップを握ると、乃雨が言った。
「危険だと思ったら、自分だけでも逃げて」
「了解」
玄関を開けた。先に一人だけで外へ出て、安全を確認する。
戻ると、乃雨の車椅子を押して通りまで出た。
「この通りをまっすぐ行った街のはずれの格納庫に向かって。かなり距離があるけど大丈夫?」
「これでも武術の修行を積んできたんだぜ。体力には自信がある」
夜は走って車椅子を押した。加速するときは全身に強い負荷がかかるが、スピードに乗ってしまえば楽だった。
「警察の目的はなんだ? やっぱり代表の逮捕か?」
「そのはずよ」
「これからどうする。『SAKURA』はないぞ」
「ないならないなりに対策は用意してあるわ。こう見えて私が鍵なんだから」
そのとき遠くから風船でも破裂したような音が聞こえた。
まさか発砲音なのか。夜は音の方向を見た。
「街の中心部ね」乃雨も同じ方角を見ていた。「もうそこまで侵入されてる。まずいわ」
「対策って、まさか銃で相手を殺すことかよ」
「ちがう。ウパニシャッドは威嚇射撃までしかしないわ」
たぶん、と彼女は自信なさげにつけ加えた。
十字路に差しかかろうとしたときだった。
左前方からヘアスプレーの缶みたいなものが、白い煙を噴き出しながら地面を転がってきた。
一つだけではない。まったく同じものが連続して三つ現れ、猛烈な勢いで白いガスを噴き出した。
あっという間に目の前がまったく見えなくなった。
「催涙ガス!」
乃雨が言った。
夜は車椅子のブレーキをかけた。
「左の建物に逃げて」
乃雨が指したのは、とり壊している途中と思われる天井のない廃屋だった。
心もとなかったが、ガスはもう目前まで迫ってきていた。
夜は車椅子を九十度ターンさせ、小屋へ走った。
廃屋のまわりは土だった。膝まで伸びきった雑草にとられ、車椅子を動かせなくなる。
夜は乃雨を置いて、扉を開けに一人で走った。しかし扉には鍵がかかっていた。思いきり蹴った。すると脆くなった木製の扉は前方に倒れた。
すぐに失望した。
建物の内部は、天井どころか壁もところどころ崩れ落ちており、隠れるにはまったく適さなかった。
そのことを報告しに戻ろうとしたときだった。ガスの中から人間がぞろぞろ出てくるのが見えた。ガスマスクをつけた機動隊だった。
慌てて夜は、乃雨のいるほうとは反対側の壁から廃屋の外に出た。
もうこんなところにまで警察が来ているなんて。夜は壁の穴から向こう側を覗いた。かなりの人員が投入されたにちがいない。
機動隊といっしょにいる背広姿の男が、乃雨に気づいてまわりに指示するのが見えた。
まずい。
機動隊員が二人、道路からそれて乃雨のほうへ向かった。
頼むからおとなしくしていろ。か弱い車椅子の女性を演じていれば、警察だってかまうことはない。
と念じた矢先だった。
乃雨は拳銃をかまえた。
バカか!
思わず叫びそうになった。
機動隊員たちはライオットシールドをかまえた。
このままだと乃雨は確実に捕まる。
だがこれはチャンスでもあった。うまく混乱を利用して脱走できる。うまくいけば警察が上陸してきた桟橋から、島の外への脱出だって可能だろう。
乃雨は発砲しなかった。
いや、撃てなかったのか。真相はわからなかったが、とにかく彼女は、突然走りだした機動隊員の一人からライオットシールドでタックルされた。
車椅子から投げ出され、その拍子に彼女は拳銃を落とした。車椅子は横倒しになり、乃雨も受け身をとれず、まともに地面に叩きつけられた。
脚を完全に失い、どうすることもできなくなった彼女は、地面を這いずって廃屋の中まで逃げ込んできた。
しかし追いかけてきた機動隊員たちに、あっけなくつかまる。
彼女は落ちていた瓦礫を投げつけて抵抗するが、二人の機動隊員を相手にはどうしようもない。あっさりとり押さえられてしまった。
さっき見た背広の男が、廃屋に現れた。
彼は床に這いつくばる乃雨を一瞥したあと、ガスマスクを外した。
「なんだ、臭くないじゃないか。ヘドロ島っていうからドブくせえと思ったのに」
男は不健康そうな顔色で、がりがりに痩せていた。おまけにひどい猫背ときた。どこか死神っぽさがあった。
「臭いのはあんたの口よ、喋んないで」
乃雨が言った。
「おーこわ。ヘドロ島の女はおっかねえや。こんなもん持ち歩きやがって」
男は乃雨が落とした拳銃を持っていた。銃口の先をつまみ、ぷらぷらと乃雨の頭上で揺らす。
それを乃雨は無言で睨みつけた。
「いいねえその目、いますぐおれを食い殺したいって目だ」
男はおちょくるように舌を出し、へらへらと踊らせた。
「三ツ矢調査官」
機動隊員の一人が男に向かって言った。「この女はどうしますか」
「チャカを持ってたんだ。引きずってでも連れていけ。車椅子の女テロリストなんてマスコミが食いつくぞ」
けけけ、と三ツ矢と呼ばれた男は下品に笑った。細長い顔で、鼻も耳も顎も尖っているくせに、口だけは大きくて唇も真っ赤だった。本当に悪魔か吸血鬼に見えた。
三ツ矢はポケットに両手をつっこみ、丸めた背をさらに丸めて歩きだした。
「それじゃ、おれは仕事に戻るわ。『原始の炎』を探しにな」
三ツ矢が廃屋から去ると、暴れる乃雨に機動隊員たちが手錠をかけようとした。
助ける理由がどこにある。夜は考えた。
そもそも自分は拉致された身なのだ。本来なら警察に保護されるべき対象であって、警察に立ち向かいテロリストを擁護するなど支離滅裂じゃないか。
そうだ、そのとおりだ、なにもまちがっていない。
だが乃雨の悲鳴を聞いた瞬間、夜は走り出した。
近くに立てかけられていたモップからヘッドを外して一本の棒とし、廃屋の中へ飛び込む。
乃雨に群がっていた機動隊員のうち、一番手前で四つん這いになっていた小太りの男の尻の穴を棒で突いた。
ぎゃっと叫んで男はふり返る。
顔にはガスマスク、そしてゴーグルにヘルメット、体には防弾ベスト。
隙がない。
対する自分は棒きれ。まるで侍と対峙した百姓の気分だった。
しかし無泰流の真骨頂は、この状況でこそ発揮される。
夜は男の左肘めがけて棒をなぎ払った。
肘の骨の少し上を強くつかんだとき、神経まで響くような痛みが発生する。
そこが人体の深穴の一つ『絶門』だ。
ケツを突かれたときとはちがい、喉が閉まり「きゅっ」とモルモットのような声を男は発した。
発汗、動悸、めまい、そして左半身のしびれにも同時に襲われていることだろう。うめき声をあげながら、男は地面をのたうちまわった。
もう一人の機動隊員が慌てて立ち上がり、ライオットシールドをかまえた。大きな盾に体がすっぽりと収まった。まったく隙がなくなる。さすがに無泰流千年の歴史でも、防弾ガラスの盾なんて想定外だ。
夜は棒を真横に倒し、相手の進撃をくい止めようとした。しかし体重の乗った力強いタックルの前に、なす術なく押し倒されてしまった。
上からライオットシールドで押さえつけられ、肺が潰されそうになる。
そのうえ『絶門』を突いてやった機動隊員まで上にかぶさってくるものだから、本格的に息ができなくなった。
夜の意識は急速に遠のいていった。
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