第47話 新宿に吹く夕風
救急搬送されたのは、港区の総合病院だった。
ついて行った夜は二階の待合室にいた。
なかなか落ち着けず、長椅子に座ったり立って歩いたりをくり返していた。
しばらくして担当医がやって来た。本田医師と同じくらいの年齢の女医だった。
野球帽をかぶった男性が死亡した、と彼女は告げた。
他の男性二人も重篤、女性は比較的ましだが予断を許さない。
おそらくパラコートという致死性の高い農薬が、飲料に混入されていた。すぐに警察も来るから、ここで待っていてほしい。
そう女医は事務的に話し、また戻っていった。
エスカレータのそばで、吹き抜けになった一階ロビーを眺めるマギのとなりに夜は立った。
タカさんが死んだことを伝える。マギは表情こそ変えなかったが、心の中で衝撃のような波が起こるのを感じた。
「撮影をしてたやつら、許さない」
「冷静になれ」
一階を見つめたままでマギは言った。
「冷静でいられるかよ!」
「だったらこれからどうする」
「警察に犯人のことを証言する」
「おまえは自分の立場がわかっているのか?」
「どういう意味だよ」
「病院は必ず患者の身元をたしかめる。本田医師は運転免許証を持っていた。そしてそれを検問所で警察にも見せている」
「つまりモールから姿を消したおれたちが、いま病院にいることも警察に筒抜けってことかよ」
「おまけに毒物混入事件が起きて、市民から死者も出た。警察はヘドロ島によるテロ事件を疑うだろう」
「でも本田先生を置いてはいけない」
「おまえの目的はなんだ? ヘドロ島に自分と姉の居場所を作ることだろう。それが叶わくなってもいいのか」
すっかりマギの調子が戻っていた。それは喜ばしいことだ。しかし観測者だとスカしていたくせに、こうも正論パンチを食らわしてくるとは。
「来たぞ」
マギが一階ロビーを指さした。
三人の制服を着た警察官が、ロビーの玄関からエスカレータへ向かい一直線に歩いてきた。その先頭には三ツ矢もいた。
「なんであいつが!」
まるで死神が、地獄の軍勢を率いているようだった。病院だから縁起でもない。
ロビーにいる人々は、それを不吉に思ったのか、単に警察官を気にしただけか、さっと三ツ矢たちに道を譲った。
「行け、非常口はあっちだ」
マギは廊下の奥を指した。
「おまえはどうするんだ」
「こうするさ」
拳を作ると、その側面でエスカレータの手すりを叩いた。
ごおん、と地鳴りに似た重低音が鳴り、地面もわずかに揺れた。その衝撃でエスカレータは緊急停止した。
あたりが騒然とする。
地震だと思い、エスカレータの上で屈む人間もいた。
夜はマギと非常口に向かい走った。
この動きは一階ロビーからでも丸見えのはずだった。案の定、三ツ矢はこれに気づいて、停止したエスカレータに警察官たちと乗り込んできた。だが乗っていた人間たちに阻まれ、立ち往生した。
夜は非常口のドアを開けて外に出た。
階段を下りると、そこはゴミ収集車やトラックなど業務用車両が止まる病院の裏手だった。
「こっちだマギ」
夜はエンジンをかけたままで止まっていたトラックに駆け寄った。運転席側のドアを開けて乗り込む。
「こいつでヘドロ島まで逃げるぞ」
助手席に座ったマギに言った。
「運転できるのか」
「トラックは初めてだが、なんとかなるさ」
パーキングブレーキを解除し、ギアをローに入れ、トラックを発進させた。
病院の駐車場から通りに出る。
北へ進むと青山通りなので、まずはそこへ向かった。
モールに残った乃雨とタウチーは大丈夫だろうか。すでに警察はそちらにも追っ手を派遣しているはずだ。異変を感じて逃げていればいいのだが。
「あのホームレスは残念だった」
窓の外を眺めながらマギがつぶやいた。
「おまえにも人の死を悼む心があったんだな」
少し余裕ができて夜は軽口を叩いた。だがマギからの反応はなく、気まずくなる。
「犯人が憎いか?」
マギから訊ねられる。
「ああ憎い」
「私は恐い」
「恐い?」
「なぜ彼らが罪のないホームレスたちを、あんな目にあわせようと思ったのか、それがわからないからだ」
マギは膝の上にのせた手を握りしめ、続けた。
「どうすればヒトの心と共振できるのか、それを知りたくてヒトを観察してきた。だがわからない。本当にすべてのヒトの心と共振など可能なのか。もし私の心とあの犯人たちの心が共振したら、私は私でいられるのだろうか。そんなことを考えると恐くなる」
「人の心ってのは、ドアみたいなもんじゃないのか」
「ドア?」
「みんな普段は心のドアを閉じている。でも親しい相手とか、信頼する相手にはそのドアを開くんだ。共振ってのは、そのドアをノックすることじゃないのかな」
「どうやったら相手の心のドアを開けられる」
「まずは自分だって開けなきゃな。一方的に鍵を開けるのは不法侵入だろ? まずは自分からドアを開けて、相手も開けてくれるのを待つんだ」
「私は自分の心のドアの開け方がわからない」
「おれもだ」
少しのあいだ沈黙が流れた。
「言いだしっぺだ、まずはおまえからドアを開けてみろ」
「開けたら、そっちも開けるのかよ」
「保証はできない」
「なんでだよ」
「恥ずかしい」
聞きまちがいかと思った。言ったきりマギは窓の外を向いて黙った。
妙な沈黙に耐えられなくなり、夜は話題を変えようと思った。
しかし異変に気づく。
マギの顔が、サイドミラーを凝視したまま、こわばっていた。
「どうかしたのか?」
夜もバックミラーを覗いた。
そこに映っていたのは、神宮球場の方向から翼を広げて飛んでくる紅いEXOギアだった。
「ウソだろ!」
夜は叫んだ。時速六十キロで走っているのに、相手は急速に距離を詰めてきた。
「追いつかれるぞ!」
マギも声をひっくり返した。
だがこれ以上スピードを上げると、前の車とぶつかってしまう。
ちょうど外苑東通りと接続する交差点に差しかかった。まっすぐ進むと見せかけ、直前でハンドルを左に切った。
あの図体なら曲がりきれないはずだ。そう確信した直後だった。無慈悲にも紅いEXOギアはビルのあいだを縫い、むしろショートカットして通りに入ってきた。
なんてこまわりのきく奴だ。乗っているのはサラシナか。あの紅いEXOギアのことを『夕風』と彼女が呼んでいたのを夜は思い出した。
夕風はまさしく地平に沈みかけた夕日と溶け込み、風を切るようにして高速で低空を飛行していた。
よほど操縦に自信があるのか、それとも地上の人間をなんとも思っていないかだろう。
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