第46話 ヒトの邪悪

 一台の自転車が橋の下へ走ってきた。乗っていたのはタオルを首に巻いたジャージ姿の老人で、ここに住むホームレスの一人のようだった。


 彼はテントの前で自転車を降りると、荷台からダンボールをおろし、テントの横のテーブルまで運んだ。


「ゲンさん、本田先生が来とるぞ」


 タカさんが彼に話しかけた。ゲンさんと呼ばれた老人は、タオルを首から外すと、少しずつ記憶をとり戻すように表情がゆるんでいき、本田医師のもとまで歩くと「お久しぶりです先生」と深くおじぎをした。


 ゲンさんは買い出しに行っていたそうだった。ダンボールから食料品や日用品をとりだし、テーブルに広げていった。


 おじじが食べたがっていた『とらや』のようかんを、赤坂まで買いに走ってきたという。「もう食えるかわからんがね」ゲンさんは泣き笑いの表情で言った。それから買ってきた日本酒も、おじじに飲ませていいか本田医師に訊いた。唇を濡らす程度なら、と彼女は許可した。


 もう帰ることを本田医師がホームレスたちに伝えた。タカさんは少しさびしそうにし、また会えるかと彼女に訊ねた。すぐには難しくても必ず、と本田医師は返した。長生きせんとな。タカさんとしんちゃんが頷きあった。


 ゲンさんがなにか思いだしたらしく、ダンボールをあさりだした。


「帰る途中でもらったんだ」


 彼はいくつかの紙パックのコーヒーをとりだした。ボランティアからもらったのだという。最近になってホームレスの支援活動を申し出てくれた二人組の大学生がいるらしい。いろいろ親身になってくれて、数少ない味方だとタカさんも話した。


 せっかくだから、このコーヒーで最後に乾杯しよう。ゲンさんが提案した。


 紙パックが各々に配られると、「われわれの前途を祝して」と乾杯の音頭をタカさんがとった。紙パックが掲げられる。夜も合わせた。付属のストローをさして、タカさんや本田医師らが飲みはじめた。


 夜は昨晩の激甘コーヒーを思いだして少しためらった。パッケージに『濃厚ミルク』とある。苦手な味にちがいなかった。一口だけ飲んで、どうしても無理なら置いて帰ろう。などと考えてから、ストローを差した。


 そのときだった。マギの手が横から伸びてきて、紙パックをはたき落とされた。


 なにをする!

 と言いかけて夜は言葉をのんだ。マギの表情が凍りついていた。


 タカさんがテーブルの上のものをひっくり返しながら地面に倒れた。口から泡を噴き、血走った眼球を飛び出さんばかりに大きく見開くと、赤ん坊のように手足を縮めながら激しく痙攣しだした。


 しんちゃんも裏返ったカエルのようなポーズで倒れ、同じように痙攣した。


 ゲンさんも体の自由がきかなくなったのか、顔面をテーブルに激しく打ちつけた。それから自身の痙攣で、がちゃがちゃと食器やフォーク、テーブルの金属部品などをめちゃくちゃに鳴らして死の演奏会をはじめた。


 本田医師も地面に膝をついていた。自分の指を口に入れ、胃の内容物を吐こうとした。その体は激しく痙攣していた。


 落ち着け。夜は自分に言い聞かせた。


 どう見たって中毒症状だ。それはわかる。即効性を考えると神経毒か。すぐに思いついたのがコブラの毒だった。しかしコーヒーに混入されていたのだから、もっとべつのものだろう。


 夜はスマホで消防にかけた。つながるとオペレータに状況を伝えた。非常に即効性が高く、激しい痙攣と呼吸困難を伴う、液体に混ざる毒物。その情報だけでも、プロには適切な対応がわかるだろうし、命を救うはずだ。


 オペレーターから通話は切らず、そのまま救急車の到着を待つように指示された。待っているあいだで、夜は自分で応急手当できないか考えた。しかし素人が浅はかに処置していいのかわからなかった。


「おまえなら、なんとかできないのか」


 焦る夜はマギに訊ねた。


「……私が?」


「魔法使いなんだろ」


「知らない。……なにも知らない。ヒトを救う術など」


 その声が若干震えていた。マギは焦点の合わない目で、まだなにかつぶやいていた。胸を押さえて、呼吸も荒い。心配になりコーヒーを飲んだのか訊ねた。彼女は小刻みに首を横にふった。


 自分よりもパニックの人間を見ると逆に冷静になるというが、あれは本当らしい。マギをテントまで連れていき、中で休ませた。

 

 マギはいわゆるショック状態で、顔面蒼白だった。

 

 とにかく休んでいろ。あとのことは、おれがやるから。そう彼女に言い含めた。

 こくりと頷くマギ。いつもの不遜さは消え失せ、少女のように震えていた。


 ちょっと待っていろ。夜はテントを出て、自分のショルダーバックの中から水を持ってこようとした。


 しかし歩いているときだった。

 堤防の上でなにかが光った。


 おや、と思い見てみると、そこに若い男が立っていた。光は男の持つデジタルカメラに、太陽光が反射したものだった。


 その男は、左腕にボランティアの腕章を巻いていた。しかし救助に駆けつけることはなく、この惨状を冷徹に撮影していた。


 夜は怒りに駆られて走った。すると男は近くで待機していた仲間の原付バイクに乗り、逃走した。


 去りぎわにも男はカメラを向けていた。

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