第45話 心の共振
タクシーは駅前の繁華街を通り抜け、堤防沿いの道を走った。
このへんでいいです、と本田医師が運転手に告げた。
タクシーから降りると、彼女は「久しぶりだわ」とあたりを見まわしながら言った。
てっきり近くの知人宅でも訪ねるものだと思っていたが、本田医師は堤防の上を歩きだした。
この先に会いたい人たちがいるのだという。しかし先には橋しかなかった。しょうがない。夜は彼女について歩いた。
橋の下にホームレスのテントが並んでいた。階段から河川敷に下りた本田医師は、テントのほうへ向かった。
テントの前で首から携帯ラジオをぶらさげた老人に、彼女は話しかけた。老人は一瞬怪訝そうにしたが、すぐに笑顔となった。
「お元気でしたか、本田先生!」
老人は椅子から立とうとした。しかし足腰が悪いようで、ついさっき冷凍睡眠から解凍されたばかりの人のように、カクカクした動きでゆっくりと立ち上がると、本田医師と両手で握手した。
「タカさんもお変わりなく」
「いやあ、すっかり老けちまったよ。最近はもの忘れもひどくてね。でも先生の顔はすぐに思いだしたよ」
タカさんと呼ばれた老人は、聞きとりにくいしゃがれた声で言った。耳も遠いのか、やたらと声も大きく、まるで小学校の校内放送のスピーカーが鳴っているようだった。
「診察するから、みんなを呼んできて」
「いまからかい?」
「あまり時間がないの」
するとタカさんは「ちょっと待っててくれ」と言い残し、テントのほうへよたよたと歩いていった。
「ヘドロ島に来る前、NPOでホームレスの医療支援活動をやっていたの。そのときの私の担当が、この地域だったのよ」
本田医師が夜に説明した。
「だからって無理をして会いに行くほどですか」
「心配になったのよ。気にかけていた人が、最近ちょっと悪いって知り合いから聞いてね。それでどうしても会いたくなったの」
テントからもう一人の高齢男性が出てきた。彼も七十代くらいだった。上下黒色のジャージを着て、野球帽をかぶっていた。やはり足腰がよくないようで、ひょこひょこと小さな歩幅で歩いた。こちらに近づきながら、彼は本田医師に親しみのこもった笑みを見せ、ていねいにおじぎした。
「そちらのお兄さんとお姉さんはどちら様で?」
タカさんが本田医師に訊ねた。
「彼らは私の友人の有村君とマギさんです」
「先生の友人なら大歓迎だ。なにもないところだが、ゆっくりしていってくれ」
タカさんが歯抜け顔で笑いかけてきた。
「二人だけ? 他のみんなは出かけたのかしら」
「一人はいま買い出し中で、もう一人はテントの中にいる。これで全部だ」
タカさんはごま塩頭をなでまわし、困った顔をした。
「なにかあったの?」
「ホームレスの排斥運動だよ。このへんも治安が悪くなって、みんな出て行ってしまった。残っているのは、体の悪い人間ばかりさ」
「噂は本当だったのね。ひどい話」
「なんの話ですか?」
夜は訊ねた。
「私もくわしくは知らないわ。タカさん、教えてくれる?」
「この近くに市民公園があるんだが、そこの運営権をスポーツ用品メーカーに売却すると区が決めてから、わしらへの世間の風当りが急に強くなってな。どこからともなく右翼団体が現れて、公園からホームレスは出て行けという立て看板を設置したり、直接脅してきたり、身の危険を感じることも増えた」
「あきらかに区とメーカーが黒幕ね。ちゃんと抗議はした?」
「したってムダだよ先生。わしらはホームレスだ」
投げやりにジャージの老人が言った。それに大きく頷き、タカさんも言う。
「しんちゃんの言うとおりだよ。みんな黙って耐えるしかなかった。けど我慢したってエスカレートするだけでさ、そのうち耐えかねて公園に住んでいた連中はここへ避難してきた。でもいやがらせは続いた。そのうち小学生をテントに連れ込んで性的暴行をしたとか、麻薬を売っていたとか根も葉もないテマを流されて、住民からもテントにものを投げ込まれたり、出て行けなんて面と向かって言われるようになった」
タカさんは唇をかんだ。そしてしぼりだすように言う。
「なにがくやしいって、わしらはずっとご近所に迷惑だけはかけんよう、務めてきたつもりだった。なのに、こんなことで全部失ってしまうなんて」
「最近じゃ活動家でもない普通の住民が、わしらをいじめよる」しんちゃんもうなだれた。「この前も高校生のグループに囲まれて、ひどいめにあった。この歳でビンタされたよ。死んだおふくろを思いだして、悲しくてくやしくて涙が止まらんかった」
「警察は対応してくれないんですか」
夜が言った。
「警察がホームレスの味方だったことは一度もないよ。先月なんか夜中にテントを放火された。火だ! とわしらに大声で教えてくれた若者のグループがいたんだが、彼らは逃げ惑うわしらを、笑いながらスマホで撮っていたよ」
「あとでSNSにあげるんでしょう」本田医師が言った。「『いいね』欲しさに、過激化する若者がいるのよ」
「これ以上いたら殺されるって、動ける仲間は街を離れていった。残ったのは、足腰のよくないわしら四人だけだ」
「話はあとでゆっくりしましょう。いまは診察させてちょうだい」
「おじじがテントだよ。もう近いと思う。先に診てやって」
タカさんは言うと、奥にある緑色のテントを見やった。
「おじじは三日前から、なにも食べていない。スポンジに染み込ませた水分を三十分おきにやっている。唇が渇いてぱりぱりなんだ。かわいそうに」
タカさんがテントに入ろうとする。本田医師はリュックサックをおろし、自分も入ろうとするが、夜とマギには外で待つように指示した。
五分ほどで本田医師は戻ってきた。テントの中には高齢の男性が寝ていて、老衰で臨終まぎわだという。これから知り合いのいるボランティア団体に連絡し、彼の親族を探してもらうそうだった。
死亡届も役所に出さなくてはならない。死亡診断書も主治医に作成してもらわなければ――。今後のことを確認するように本田医師は独白した。
こんなところで人間を看取るのか。夜は衝撃を受けた。しかしホームレスだと珍しくないと彼女から教えられた。
本田医師が電話をかけているあいだ、夜はタカさんが用意してくれた椅子に座って休んでいた。なにか自分にもできることはないかと考えたが、なにもなかった。居心地悪そうにしていると、猫を抱いたタカさんがやって来た。
「お兄さんも、ボランティアの方ですか」
タカさんは自分の椅子を持ってきて、夜のとなりに腰をおろした。
「いえ、僕はヘドロ島から来まして」
「ヘドロ島? そりゃあはるばるご苦労さまです」
冗談かと思ったのか単なる笑い上戸なのか、タカさんは一本足りない前歯を見せた。
「他に行くあてがないのなら、いっそヘドロ島に移住しませんか」
「あそこも、お国と戦争しとるんだろ?」
「でも孤独ではありません。守ってくれる人間がいます」
「そんな人、本当におるんかねえ」
「ヘドロ王です」
悪い冗談に聞こえそうなものだったが、タカさんは笑顔のままで頷いた。
「そりゃあ心強い」
「ここは危険です。暴力がエスカレートしていけば怪我じゃ済まなくなります」
「こんな老いぼれを心配してくれるのかい。ありがとう」
タカさんは目を細めた。そして猫の頭をなでながら、こう続ける。
「でもいいんだ。わしらはここで生き抜くと決めたから」
「恐くないんですか?」
「この歳になったら、新しい土地へ移るほうが恐いよ。ここを出た仲間も、向こうで苦労しとる。ホームレスが増えて喜ぶ街なんてない」
「ヘドロ王はちがいます」
「わしらを仲間として受け入れてくれるのかい?」
「はい。ヘドロ王は弱き者の味方です」
「そうかそうか、さすが王だ」
タカさんは何度も頷いた。まるで幼い孫の空想話を聞く祖父のように。
そこに本田医師が戻ってきた。彼女にタカさんが言う。
「先生、このお兄さんが、困っとるならヘドロ島に来いと言ってくれたよ」
「よかったわね」
「優しい人だ」
タカさんは本当にうれしそうだった。
「それでタカさんの考えは?」
「わしらはここで生きるよ。気遣いはありがたいがね」
「そう。本人の意思を尊重するわ。じゃあタカさんも診てあげましょうか」
本田医師は首からさげた聴診器を持った。
診察がはじまったので、夜は椅子から立ち上がった。
マギが岸で一人たたずんでいた。そこへ向かった。
「ここは退屈だ」
さっそく夜は愚痴を聞かされた。
「コンクリートの壁と橋だけで、共振させてもつまらない」
「そいつは残念だったな」
「だがおまえはちがう」
「なにがだ?」
「あのホームレスの心と共振していた」
そんなくさいセリフを魔女の格好で言うのか。夜は笑ってしまった。
「変なやつだな、おまえ」
「その自覚はある。小さいころから」
マギは手に持っていた石を、水面から頭だけを出した岩に向かって投げた。
「どんな子供だったんだ?」
「どんなものも共振させようと執着していた」
また石を岩に向かって投げる。ぶつかった振動で水面に小さな波紋ができた。
「どこであんな特技を学んだんだ?」
「祖母から教わった。祖母は私にこの世のすべてを教えてくれた」
「教わったらできるものなのかよ」
「おまえも鍛錬すれば習得できる」
いつまでも共振を起こせず、手元の石が残り一つになった。マギは人差し指を立ててから、最後の一つを岩に向けて投げた。しかし石は命中すらせず、川のせせらぎにのみこまれた。
「そういう日もあるさ」
「どうかな」
マギは指を鳴らした。次の瞬間、岩から波紋が広がった。さらに共振は連鎖し、まるで透明人間が飛び石をわたっているように、近くの岩から遠くの岩へと順番に波紋ができた。
「共振も人体におけるツボ――おまえ風に言うと経穴のようなものだ。あらゆる物体には、固有の振動数というツボがある。それさえ知っていれば、理論的にはどんなものでも共振を起こせる。たとえ惑星でもな」
「本当かよ」
夜は自分でも指ぱっちんしてみた。だが、うんともすんともいわなかった。
「幼かった私は、得意になってなんでも共振させようとした。朝食のオレンジ、学校の廊下、級友の自転車、近所の街路樹――。子供の小さな手でも、石橋すら簡単に落とせた。私は十歳にして万物の支配者をきどっていた。だが祖母は、どんなに私が大きなものを共振させても、ほめてはくれなかった。『人間の心と共振しなさい』。これが彼女の口癖だった。この世には、すべての人間の心と共振できる魔法の言葉がある。そう彼女は信じていたんだ。でも自分には見つけられなかった。だから私にそれを探してほしいと願っていた」
「それで見つかったのか?」
「覚えるのは皮肉と嫌味ばかりだ」
「それじゃ怒りで相手の体が震えそうだ」
「たしかに」
めずらしくマギは笑い声をあげた。夜もつられて笑いだした。
「お邪魔かしら」
聴診器を首からさげた本田医師が近づいてきた。
「用事は済んだわ」
「ショッピングモールに戻りますか?」
「ええ。つきあわせてごめんなさいね」
「あのホームレスの人たちはいいんですか」
「知り合いに来てもらうわ。あとのことは任せて、私たちは本来の仕事に戻りましょう」
言うと本田医師は、なぜか夜とマギを交互に見やり、にやけ顔をした。
「なんですか、そんな顔して」
「青春だなあって思って。私もいい人を見つけなきゃねえ」
「だから誤解していますって」
しかし本田医師は聞かず「でもそんな人がヘドロ島にいるのかしら」とぼやきだした。
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