第44話 暴走医師

 谷町で渋谷線に入り、渋谷出入り口で下りると、それから数分で目的のショッピングモールに着いた。


 薬局は一階の出入り口と食品売り場の中間にあった。本田医師だけが薬局に入り、他は外で待った。


 昼前なだけはあり、食品売り場は混雑していた。

 

 夜は乃雨の車椅子をベンチに寄せて、自分も座った。

 そこにタウチーがすっと近づいてきて、こう報告した。


「九時の方向、二十メートルに刑事が二人」


「車で尾行していた連中ね。まったく隠れる気がないみたい」


 薬局のほうを見ながら、自然を装い乃雨が言う。


「見張っているから、妙なまねはするなってことさ」


「やなやつら」


 パン売り場にいる背広を着た男二人組のことだろう。焼きたてのパンを求めて女性客でにぎわうなか、仕事モードで目つきの鋭い男二人が突っ立っているとよく目立った。


「どこへ行く」


 急に歩きだしたマギに夜が言った。


「トイレだ」


 トイレは食品売り場のほうにある。ちょうど刑事たちのそばを通る必要があった。だがマギは気にもせず行ってしまった。


 入れちがいに本田医師が薬局から戻ってきた。


「ごめんなさい。注文した薬がまだ全部届いていないそうなの。二時間後にまた来てくれって」


「二時間後?」


 そんなに長く東京に滞在して大丈夫なのだろうか。


「どこかで時間を潰さなきゃね。みんなはモール内で行きたいところとかある?」


 本田医師はタウチーを見た。タウチーは乃雨を見て、乃雨は夜のことを見た。

 

 みんな特になさそうだった。


「お姉ちゃんが空気洗浄機を欲しがってたから、見てみようかな」


 乃雨が言った。


「ならいっしょに行くか。おれも家電を見たかったし」


 タウチーが言った。


「じゃあ決まりね。私はクリニックで使えそうな雑貨を見てくるわ。有村君もいっしょに来てくれる?」


 本田医師に頼まれ、夜は了承した。


 乃雨たちはエレベータのほうへ歩きだした。家電売り場は四階、雑貨売り場は二階だ。しかし本田医師は、エレベータとは逆方向の食品売り場へ向かった。


 二手に分かれたことで、予想どおりペアだった刑事たちも分かれ、片割れがぴったりとついてきた。


「どこへ行くんですか」


 なぜか食品売り場の奥へと突き進む本田医師に、夜は訊ねた。


「マギさんを置いてきたけど、大丈夫かしら」


「あいつなら心配無用です。いつも気づいたらそばにいるので」


「信頼しているのね」


「べつにそういうわけじゃ……」


 本田医師と二人きりになれそうで、夜は緊張した。彼女に危害を加えるなんて、絶対にありえない。最初から選択肢にもなかった。


 しかし三ツ矢の死神じみた顔が、どうしても脳裏にちらついた。おまえの犬になんて誰がなるか。


 いきなり本田医師が方向転換した。左手側にあるスナック菓子の並ぶコーナーに飛び込む。まるで逃げるような動きだった。


 夜は追いかけた。本田医師の姿はもう、となりの調味料コーナーに消えようとしていた。なぜか彼女は走っていた。いったいどうしたというのだ。


 彼女はスピードを緩めず、調味料コーナーも駆けぬけた。そのままインスタント食品のコーナーに突入する。わけがわからなかったが、夜は走って追いかけた。


 ぐるっと大きくUの字を描くようにして、もとの通路に戻った。追いついた夜の困惑を予想したように、彼女は言った。


「有村君、手を貸してくれる?」


「なんですか」


「警察をまきたいの」


「どうしてです」


「どうしても行きたい場所があるのよ」


 本田医師はうしろをふり返った。夜も同じようにした。そのうち血相を変えた刑事が、棚の陰から飛び出してくるはずだった。


「モールの外に出る気ですか?」


「すぐに帰るわ。でも警察には見られたくないの」


「まずいですよ、いま警察を刺激するのは」


「じゃあ一人で行ってくる」


 まいったな。夜は頭を抱えたくなった。彼女だけだと不安だ。しかし二人そろって監視の目をふりきってしまえば、警察は必死になって捜索するだろう。あとでトビーから怒られるだけならまだいい。それよりも政府を怒らせるほうが恐かった。


 刑事が調味料の棚から慌てた様子で飛び出てきた。それを見て本田医師が全速力で走り出した。もうどうにでもなれ。夜もついて行った。


 刑事が鬼のような形相で追いかけてきた。夜は走りながらリンゴの入ったケースを片っ端からひっくり返した。床をリンゴが埋め尽くし、足の踏み場もなくなる。刑事は地団駄を踏んでから、調味料の棚へ引き返した。


 一階出入り口から外へ出ると、本田医師が向かった先はタクシー乗り場だった。そこで待機していた一台のタクシーの窓ガラスを彼女はノックした。スマホを見ていた運転手が気づき、ドアロックを解除した。


「ありがとう有村君、もういいわ」


 肩で息をしていたが、本田医師は楽しそうに笑っていた。このスリルを堪能しているようだ。この小さな体のどこから、こんな豪胆さが湧いてるくるのだろう。


「先生を一人にはできませんよ」


 しかしタクシーのドアが開いたときだった。背後から肩を叩かれ、夜は全身が凍りついた。


「私から逃げようなど五千年早い」


 マギだった。珍しく少し怒った顔をしていた。


 助手席に乗り込んだ本田医師が行き先を告げた。しかし夜はその地名をまったく知らなかった。


「先生は大胆すぎますよ」


 追っ手がないことを確認し、夜はようやくシートに体を沈めてリラックスした。


「親にもさんざん言われてきたわ。おまえは落ち着きがないって。学生のころから、国内外を行ったり来たりだったから」


「ずっと医療活動をしていたんですか?」


「ええ。医師になる前は、カンボジアで戦災孤児の教育を支援するNPOに参加して、医師になってからも一年の三分の二は海外だったわ」


「なぜヘドロ島に来たんですか?」


「知り合いからヘドロ島が医師を募集しているって聞いて、おもしろそうだと思ったの。だって退屈しなさそうじゃない」


「刺激の少ない生活ができないタイプですか」


「そうね。まわりはとっくに結婚して落ち着いたというのに、私はいつまでも根なし草」


 本田医師は笑った。まるで少女のように屈託がない。きっとこの笑顔で、紛争地帯すらも渡り歩いてきたのだろう。


「まさか最初からこうする気で、薬局にもわざと早めに向かったんじゃ――」


「さあ、どうかしら」


 すっとぼけると本田医師は、冷房をつけてほしいと運転手に頼んだ。


「いつか危険な目にあいますよ」


「もう何度もあっているわ。ミャンマーでは反政府ゲリラとまちがえられて、近距離から兵士に撃たれたもの。さいわい銃弾は肩をかすめてくれたけど。私、運だけはいいから」


 これまでの経験からか、やけに本田医師は自信たっぷりだった。


「けど最近は落ち着こうと思っているのよ。ヘドロ島の問題がひと息ついたら、結婚相手でも探そうかなあと思って」


「できるだけ早くそうしてください」

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