第4話 壊れた家族
駅から自宅までは、二年前に中古で買った400ccバイクで五分の道のりだ。
外はまだ明るいというのに、通りかかった公園にはカラスしかいなかった。
かつてはドヤ街と呼ばれていたという。
日雇い労働者が多く暮らすという意味だ。
しかし土建需要の低迷と住人の高齢化で、いまでは見る影もない。
アパートに暮らすのは、もはや死を待つだけの身寄りのない生活保護受給者。たまに出入りする若い人間がいたとしたら、それは彼らを食いものにする悪徳業者だ。
木造アパートの密集する路地にバイクで入った。
どんよりとした曇り空は、アパートの陰をますます濃くする。そういう日は、いっそう街全体がくすんで陰気に見えた。
わがもの顔で路地に寝そべる野良猫の集団が、バイクにまたがる夜のことを睨み返してきた。魚でも献上しないと通行を許可してくれそうにない。
とうとう猫まで、あこぎな商売をやりだしたのか!
夜は嘆いた。
この路地をさらに進んだ先のおんぼろアパートの二階が、夜の自宅だった。
玄関のドアを開けると、ミヤコが奥から飛び出してきた。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
うれしそうに彼女は、玄関で小さく飛び跳ねた。そんなミヤコの頭をなでてやってから、夜は靴を脱いで廊下にあがった。
居間では父親のカズキが、寝転がりながらテレビを観ていた。
夜は台所へ向かった。
買ってきた牛乳や卵や納豆を冷蔵庫にしまい、代わりに鶏肉を出して下処理をはじめた。
夕食は照り焼きなので、まずはボールに醤油、みりん、砂糖、酒を入れて調味料から作りはじめる。
料理は中学二年生からやっていた。忙しい姉に代わり、月水金の夕食は夜の担当だった。
「おい夜、酒は買ってきたのか」
カズキの声だ。
「買ってない」
「買ってこいって言っただろ。いますぐ行けバカやろう」
「自分で行けよ」
「親に向かってナメた口きくんじゃねえ!」
テレビのリモコンが台所まで飛んできた。右耳をかすり、壁にぶつかると中の電池が弾けてフライパンに落ちた。
夜はそれを拾ってゴミ箱に放り込むと、代わりに鶏肉をフライパンに入れて焼いた。あんな父親のために、一秒でも費やすのがもったいなかった。
焼きあがるまでに台所の掃除をすることにした。シンクに捨てられたビールの空き缶の山をどうにかしたかった。朝はきれいだったから、昼間から父親が飲んだくれていたのだ。
まだ底に飲み残しのある缶にもタバコの吸い殻を入れるせいで、中から邪悪な色の液体が出てくる。ひどいにおいで気分が悪くなった。
缶を一つひとつ潰し、レジ袋に放り込んだ。仕事で疲れて帰ってくる姉の晴子に、こんな作業はやらせたくなかった。
「あー金がねえ。今日は大負けだ、ちくしょう」
カズキの機嫌の悪い理由はそれか。またヤクザたちと遊んでいたのだろう。
パックで味噌汁のだしをとっていた夜は、父親をこれ以上刺激しないように、音をたてず冷蔵庫の中から具材をとった。
ヤクザとつるみだしてから、ひどかったカズキの生活はさらに荒んだ。金遣いはさらに荒くなったし、彼らに気に入られたいのか身なりや仕草までアウトロー化した。
最近はそいつらの経営する風俗店で、若い女をスカウトするポン引きみたいな仕事も得ていた。
「ああなる前は、家族のために働く優しいお父さんだったのよ」
そう晴子からは何度も聞かされていた。しかし夜に当時の記憶はほとんどない。
ああなる前、つまり十数年前までの父は、大手スーパーの正社員だった。
しかし会社の業績悪化で契約社員となってから、突然歯車が狂いだした。
系列のコンビニ店長を任されることになったカズキを待っていたのは、年中無休の一日十八時間労働だった。
ようやく生んだ儲けも、半分をロイヤリティとして本社に上納しなければならず、管理職なので残業代もない。
アルバイトのぶんまで労働力をカバーしなければならず、やがて心身を壊してしまった。
一年でうつ病と診断された。
会社はクビになった。
契約社員に退職金などあるわけもなく、わずかな失業手当も治療費に消え、母のパートが一家の支えとなった。
すっかり自信をなくしたカズキは酒におぼれ、そのころから母への暴力が日常化した。
見かねた知人からの紹介で、ガス会社で営業の仕事をはじめるが、中年になったカズキは新しい職場になじめず、仕事から帰ると「中卒のガキが偉そうにしやがって」と年下の上司や同僚たちへの怒りをぶちまけ、母を殴った。
こんな父親を、かわいそうな人だと晴子は評した。
どこがだ?
むしろあんなクソ親父に縛られて、いつまでも自由になれない自分を心配しろと夜は姉に対して思う。
居間のほうから絵本を読む声が聞こえてきた。カズキとミヤコの声だった。
夜はできあがった鶏肉の照り焼きと味噌汁を居間まで運んだ。
クレヨンで描いたミヤコの絵が、床にまで散らかっていた。ままごとに使った食器やフォーク、人形もそのままだ。これを片づけるのも、夜の仕事だった。
ミヤコはテーブルに絵本を立てて朗読していた。『三匹のこぶた』だった。
彼女はときどき言葉をつまらせる。そのたびにカズキが、代わりに読んだ。
ミヤコは夜に気づき「お兄ちゃん」と言った。
彼女は怯えて涙ぐんでいた。
よく見るとカズキの右手が、彼女のスカートの中をまさぐっていた。
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