第5話 弟と姉
夜はアパートを飛び出した。
近くの自販機まで走ると、吐き気を必死にこらえた。なんでもいいから胃に流し込みたかった。
母親はときどき発作を起こす。
こんな現実から逃げるように。
父も初めのころは面食らっていたが、いまでは母の狂態を楽しむようになっていた。
自販機に両手をついた。
爪のあいだに溜まった黒いカスから、ヤニのにおいがした。いますぐ全部の爪をはがして、消毒液に浸したかった。
「夜、なにをしてるの」
その声でわれに返る。
うしろに晴子が立っていた。
あとちょっとで自販機に頭を打ちつけるところだった。
夜は「べつに」と平静をとりつくろい、ポケットから財布を漁るふりをした。
「またお父さんが荒れてるのね」
「そんなのいつもだろ」
「帰るの、少し待ったほうがよさそう?」
「むしろ、あの家から出て行くのが正解」
「くだらないことを言わないの」
夜のとなりに晴子が立った。
スーパーのパートから帰ってきた晴子は、薄めの化粧にグレーのカーディガンとスカートという地味な格好だった。
誰の目にもパッとしない女性に映るだろう。
しかしクラブに出勤するときは、美しい大人の女に変身する。
こう見えて競争の激しい六本木のクラブで、長くトップクラスを維持する嬢だ。
夜にとっては自慢の姉だった。
「こうして話すのも久しぶりね」
「姉ちゃん忙しいからな」
「ジュース、買ってあげようか」
「いいよ。ジュースくらい自分で買うから」
しかし財布を持っていなかった。
買ってもらった缶コーヒーを手に、近くの公園のベンチに二人で並んで座った。
「大学はどう?」
「うまくやってる」
「そう、よかった」
早くも沈黙が訪れる。
姉弟だから話すことも多くない。
夕日に目を細めながら、温かい缶コーヒーを喉に流し込んだ。
「いつまでこんな生活を続けるんだよ」
ぽつり夜はこぼした。
「ずっとよ。家族と暮らすのはあたりまえでしょう?」
「でもいいのかよ。姉ちゃんだけが、進学も青春もなにもかも諦めて。このままじゃ結婚だって――」
「やめて。その話はしないって約束したでしょう」
「でも」
「いいの。姉ちゃんは、あんたに賭けたんだから」
「おれなんかに期待するなよ」
「あんたは普通とはちがうわ。昔から姉ちゃん言ってるでしょう。あんたはすごい能力を秘めてるって。だからなにも心配しないで、大学でうんと学びなさい」
晴子の笑みは、どこまでも穏やかだった。
なんでそんなに優しいんだ。もはや夜は呆れた。
昔からこうだった。自分のことはあとまわし、いつも他人のために働く。
それが自分の天命だといわんばかりに。
飲み終わった缶をゴミ箱に放り込んだときだった。
『メリーさんの羊』を大声で口ずさむ小柄な男が、公園に入ってきた。いそいそと小股で歩く特徴的なフォームだから、すぐに誰かわかった。
「ようメリーさん、元気かよ」
呼んでやると、メリーさんは少し驚いた顔をした。それからすぐに破顔し、てけてけと小走りで近づいてきた。
その途中で植木のそばから棒きれを拾うと、いつものように夜に挑みかかってきた。
夜もベンチの下から棒きれをとり出して応じた。
「今日こそこの国を渡してもらうぞ、ヘドロ王」
悪役になりきって夜は言う。
メリーさんは顔をくしゃくしゃにして喜んだ。
チャンバラに付き合いつつ、最後はやられ役を演じた。
「夜の負けー」
はしゃぐメリーさん。
夜はそれを地面から見上げて、「次は負けないからな」と合わせた。
満足したメリーさんは、また『メリーさんの羊』を口ずさみながら、ねぐらにしている公衆トイレへと小股で駆けていった。
「お楽しみいただけたかな?」
夜は立ち上がると、晴子に向きなおり、まるで騎士のように棒きれを腰に差すふりをした。
「またヘドロ王ごっこ?」
晴子は優しい笑みを浮かべていた。終わるまでなにも言わず、待ってくれていたのだ。
「ヘドロ王役はメリーさんに譲ってやったけどな」
「でもメリーさん、これから寒くなるのに大丈夫かしら」
「保護者でもいたら連絡するんだけど」
メリーさんがどこから来たのかも知らなかった。本人はなにも教えてくれないのだ。
「どこかの施設にいたんじゃないかしら」
「だとしたら下手に通報できないな。逃げ出してきた可能性もあるし。他になにか考えないと」
「優しいのね、夜」
「ヘドロ王なら困ってる人間を助けて当然さ」
「まだヘドロ王ごっこやってるの? 姉ちゃんは付き合わないわよ」
くすくすおかしそうに晴子は笑った。
「そのうち姉ちゃんも助けてやるよ」
「はいはい、待ってるわ」
晴子はベンチから立ち上がると、うんっと全身を伸ばした。
「じゃあ、姉ちゃんは着替えて仕事に行ってくるから」
空になった缶をゴミ箱めがけて放り投げた。が、みごとに外れ、このあと夜になにをすべきか視線で忖度を求めた。
少し疲れた顔だったが、いつもどおり晴子は一つの愚痴も弱音もこぼさなかった。
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