第5話 弟と姉
夜はアパートを飛び出した。
近くの自販機まで走ると、吐き気を必死にこらえた。なんでもいいから胃に流し込みたかった。
母はときどき”発作”を起こす。
こんな現実から逃げるように。
一度アレがはじまったら、しばらくはあのままだ。和樹は初めのころ多少面食らってはいたが、いまでは母の狂態を楽しむようになっていた。
自販機に両手をついた。爪のあいだに溜まった黒いカスから、ヤニのにおいがした。いますぐ全部の爪をはがして、消毒液に浸したかった。
「なにをしているの夜、こんなところで」
その声でわれに返る。
ふり返ると晴子が立っていた。
あとちょっとで自販機に頭を打ちつけるところだった夜は、「べつに」と平静をとりつくろい、ポケットから財布を漁るふりをした。
「またお父さんが荒れているのね」
「いつものことだろ」
「お母さんの具合はどう?」
「今日はまだ落ち着いているほう」
「帰るの、少し待ったほうがよさそうかな」
「むしろあの家から出て行くのが正解」
「くだらないことを言わないの」
晴子は夜のとなりに立った。
スーパーのパートから帰ってきた晴子は、薄めのメイクで地味な柄のカーディガンにジーンズとスニーカーという、パッとしない格好だった。だが本人は気にもしていない。ファッションは手段だと言い切る女だ。そんな性格だから、六本木のクラブでは媚びない嬢として、一部からマニアックな人気を集めているらしかった。
「こうして話すのも久しぶりね」
「姉ちゃん忙しいからな」
「ジュース、買ってあげようか」
「いいよ自分で買うから」
しかし財布は持ってきていなかった。
結局ジュースを買ってもらい、晴子と近くの公園のベンチに並んで座った。
「今週の課題図書は読んだの?」
晴子から訊かれた。今週はポール・サミュエルソンの『経済学』だった。
「読んだ」
「じゃあ感想を話して」
「ろくでなしの親なんか見捨てて自由になれ。姉ちゃんは好きな人と結婚して、幸せな家庭を築くべきだ」
「ふざけないで」
「ふざけてなんかない」
「夜、その話はしないって約束したでしょう」
「でも姉ちゃんは本当にこれでいいのかよ。自分は進学も青春もなにもかもあきらめてさ」
「いいの。姉ちゃんは、あんたに賭けたんだから」
「姉ちゃん自身の幸せはどうなるんだよ」
「あんたが社会で成功することが、姉ちゃんの幸せよ。だから本をちゃんと読んで。教養は必ず身を助けてくれるから」
「その本を買うカネで、自分の服や化粧品を買ったほうが絶対いいのに」
だがいくら言っても晴子は、意志を曲げなかった。高校進学をスパッとあきらめ、家計のために働きだすと同時に、六歳離れた弟に資源を集中するという『選択と集中』を実行した女だ。言って聞くような性格ではない。
「それよりも大学は最近どうなの?」
「ぼちぼちだよ」
「前に友達って話していた子、進藤君だっけ。父親が大手証券会社の主任アナリストっていう。彼とはいまでも仲いい?」
「ああ」
「じゃあ衆議院議長の長男っていう子は?」
「あんまり話していない」
「話しなさい。仲良くなるの。勉強よりも大事なことよ」
「はいはい。『人脈は資産』だろ?」
「あんたの通う大学には、有力者の親を持つ子息がたくさんいるわ。彼ら自身も将来官僚や政治家、大企業幹部になる。彼らとの人脈を築けるのが、大学の真の価値よ」
「善処してみる」
夜は空になった缶を捨てにベンチから立ち上がった。いつも晴子はこんな調子だった。姉というよりは教官だ。その才能を自分のために使えていたら、と惜しくなる。
小学生のとき、夜はイジメにあっていた。きっかけは安宿街で大流行した結核だった。このとき街全体を消毒する騒動に発展したのだが、このとき夜も保健所からの指示でしばらく登校を禁止された。そのせいで貧困地域に住んでいることまでバレてしまったのだ。
まわりからバイ菌あつかいされ、机を廊下に出されたり、消毒用アルコールで教科書までびしょびしょにされたりし、そのうち暴力まで受けるようになった。
「学校になんて行かなくてもいい」
そう言いきった晴子の毅然とした表情を、いまでもはっきりと夜は覚えていた。
飲み終わった缶をゴミ箱に放り込んだときだった。『メリーさんの羊』を大声で口ずさむ小柄な男が、公園に入ってきた。いそいそと小股で歩く特徴的なフォームだから、すぐに誰かわかった。
「ようメリーさん、元気かよ」
呼んでやると、メリーさんは少し驚いた顔をした。それからすぐに破顔し、てけてけと小走りで近づいてきた。
その途中で植木のそばから棒きれを拾うと、いつものように夜に挑みかかってきた。夜もベンチの下から棒きれをとり出して応じた。
「かかってこい」と夜はメリーさんを煽った。そして適当にさばきつつ、最後はやられ役を演じた。
「夜の負け」と喜ぶメリーさんを地面から夜は見上げ、「次は負けないからな」と調子を合わせた。
満足したメリーさんは、また『メリーさんの羊』を口ずさみながら、ねぐらにしている公衆トイレへと小股で駆けていった。
「お楽しみいただけたかな?」
夜は立ち上がると、晴子に向きなおり、まるで騎士のように棒きれを腰に差すふりをした。
「夜、彼はホームレスよ」
晴子は冷たく言い放った。
「だからなんだよ」
「あんたも変に思われたらどうするの」
「変に思う人間がおかしい」
「ヒーローごっこはやめて」
「そんなんじゃない」
「またヘドロ王のまねでしょう?」
晴子はかぶりをふった。そして「あんな本、読ませるべきじゃなかった」とぼやいた。
「なんで姉ちゃんは、ヘドロ王を嫌うんだ」
「あれは作り話よ。現実のヘドロ島に住んでいるのはテロリスト。ゴミ処分場だった東京湾の人工島に住み着いて、独立国みたいにふるまっているわ」
「でもヘドロ島は、メリーさんみたいな人間も受け入れて保護している」
「ただのパフォーマンスよ。あんたみたいな単純な人間を騙すための」
「ひねくれすぎだ」
夜は地面を蹴りあげた。
「それよりもその話、他ではしていないわね? テロ集団に憧れているなんて、世間に知られたら大変だわ」
「ヤクザとつるむ父親がいるって知られるよりもか?」
「自分の親を悪く言うのはやめなさい」
「姉ちゃんこそ目を覚ませよ。あんな父親のために自分を犠牲にするな」
「いいかげんにして夜、怒るわよ」
目を閉じながら大きく息を吸い込む。晴子がキレる一歩手前のサインだ。だが夜はひるまなかった。
「姉ちゃんはヒーローを求めているんだろ。自分を救いだしてくれるヘドロ王みたいなヒーローを」
「あんたがそのヒーローだと言いたいの?」
「だってそうじゃないか。だからおれを教育してきたんだろ」
「うぬぼれないで。あんたになにができるっていうの」
これ以上はとりあわないと意思表示するように、晴子は立ち上がった。「あんたは自分のことだけを心配していなさい」
「頑固者め」
「けっこう」
晴子は残ったコーヒーを喉に流し込み「じゃあ、姉ちゃんは着替えて仕事に行ってくるから」と空になった缶をゴミ箱めがけて放り投げた。が、みごとに外れ、このあと夜になにをすべきか視線で忖度を求めた。
少し疲れた顔だったが、いつもどおり晴子は一つの愚痴も弱音もこぼさず、別れぎわに恒例の儀式をした。
夜の心臓あたりを人差し指でつつき、まじないのように言った。
「あんたは頭もいいし度胸もある。戦いなさい。戦って、勝ちとりなさい」
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