第37話 帰省

 先に大学の仕事を片づけたいから、夕方にまた落ち合おう。そう南条から提案された。ちょうど夜も実家に立ち寄りたかったので了承した。


 地下鉄を乗り継いで夜は地元に帰った。

 ……のだが、自宅には向かわず、近所の公園のベンチでぼうっとすごしていた。


 なんで家に帰らないんだ?

 あたりまえの疑問を、となりに座るマギが口にした。


「親に会いたくないんだ。ここで姉が帰ってくるのを待つ」


「苦手なのか」


「まあな」


「私もだ」


「おまえにも親がいるんだな」


「あたりまえだ」


 それから無言が続いた。


 マギは西の空を見上げていた。遠い故郷でも思っているのだろうか。どんな子供時代だったのか訊きたくなったが、素直に教えてくれるタマじゃないのは、この短いつきあいでわかっていた。


「姉はどういう人間だ?」


 そのくせ自分はなんでも訊ねてくるのがマギだ。


「歳が離れている」


「私にも歳の離れた兄がいる。世界で一番嫌いな人間だが」


「親も兄も嫌いって、それじゃ家族が嫌いみたいじゃないか」


「ああ嫌いだ。家族で信頼できる人間は、十歳のときに死んだ祖母だけだった」


 そのとき『メリーさんの羊』が聞こえてきた。いつもどおり小股でぱたぱたと歩き、彼は公園に入ってきた。この公園のヌシだ、と夜はマギに説明した。


「よう、メリーさん久しぶり。元気だったか」


 するとメリーさんは顔だけを夜のほうに固定したまま、一直線に水道をめざした。水道にたどり着くと、顔を下に向け、口をハの字にした。しかし蛇口のハンドルをひねっても水が出てこないから、今度は眉をハの字にして夜のほうを見た。


 やれやれ。夜はベンチから立ち上がり、メリーさんのもとへ向かった。


 ハンドルを全開までひねっても、水は一滴たりと出てこなかった。なにか異物でも内部につまっているのだろうか。


「いちおう自治体に報告しておくか。まあ修理なんて何年後になるかわからないけど」


 夜はメリーさんに言った。しかしメリーさんは離れようとしなかった。まるでペットが病気にでもなったように、悲しそうな顔で蛇口に寄り添った。


「最近まで水は出ていたのか?」


 マギもやって来た。知らない人間が恐いのか、メリーさんは夜の背中に隠れた。


「出てたから、メリーさんは飲もうとしたんだろ」


「なら誰かの仕業かもな。蛇口は砂と砂利を混ぜて入れるだけで簡単につまる」


「いやがらせか。そういえばここの水道を撤去しろって苦情も出ているらしい」


「なぜだ」


「察してくれ」


 夜は横目でメリーさんを見た。ホームレスの排斥なんて珍しくもない。マギも理解したようだった。


「どれ、私が手を貸してやろう」


 彼女は言うと水道の前に立った。マジシャンでも気どるように人差し指を立て、それを逆さになった蛇口にゆっくりと近づけた。とんとんとんとん、と一定のリズムで優しく叩きはじめる。


 すると蛇口は、モーターでもついているように激しく振動しはじめた。


 その不思議な現象を、メリーさんは食い入るように見て、「すごいすごい」と歓声をあげた。本物のマジシャンのショーを鑑賞する子供のようだった。


 ごん、という鈍い音が鳴った。蛇口が振動に耐えきれずに外れたのだ。


 その直後、大量の水が勢いよく噴射され、マギの体を直撃した。

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