第36話 大いなる前進

 ヘドロ島を発ってから四十分ほどで目的の漁港に着いた。


 そこは千葉県だった。

 ここから東京へは、クロネコが車で送ってくれた。


 久しぶりの地上だ。車窓を流れるネオンの景色も妙になつかしかった。


 マギも郷愁に駆られたのか、「明日の朝はハンバーガーを食べよう」と提案してきた。悪くないと夜は思った。


 明治通りを北上し、亀戸駅周辺まで来たとき、送れるのはここまでだとクロネコは車を止めた。夜は彼に礼を述べてから車を降りた。


 その夜は近くのネットカフェで仮眠をとった。


 午前九時にセットしたアラームで起床すると、近くのハンバーガーショップでマギと朝食をとり、それから大学へ向かった。


 南条は研究室の自分の机で、ノートパソコンを叩いていた。


 開けっ放しだったドアをノックすると、彼はふり向いて少し驚いた顔をした。


「有村君か。しばらく見なかったから心配してたぞ」


 南条はワイシャツにノーネクタイで、ベストを着ていた。髪をセンターで分け、肌は白くてつるんとしている。


 良家のお坊ちゃんといった雰囲気なのだが、これでも教授だ。南条のファンだという女子学生は意外に多かった。


 ちらっと南条がマギのことを見た。


 こういうとき夜は、相手から求められるまでマギの紹介はしなかった。めんどうだったし、マギも観測者らしく会話には参加しないからだ。


 夜はドアを閉めてから切り出した。


「南条先生、じつは折り入ってお話があります」


 これまでの経緯を南条に話した。


 最初は半信半疑で冗談を飛ばすくらい余裕のあった南条だったが、だんだんと口数も減り、途中からは黙って聞き入った。


「そんなことがあったのか……」


 聞き終えた南条は、口元を手で覆いながら声を絞りだした。


「すみません、こんなことに巻き込んでしまって」


「いいや、謝るのはこっちだ。むしろ有村君を巻き込んでしまった」


「協力していただけますか?」


「『SAKURA』をヘドロ島の武装集団に渡すのか……」


 やはり二つ返事はもらえそうにない。


 夜は粘った。


「それで『原始の炎』の封印が解けるというんです」


「『原始の炎』? それってヘドロ王物語の?」


「そうです。彼らはそれが本当に存在すると言っています」


「まいったな。ぼくにそれを信じろというのか」


 南条は遠慮がちにだが笑い飛ばした。


「ヘドロ島側の目的は、政府との戦闘を避けることです。そこは信用できます」


「でも『原始の炎』って、この世界を灰に変えるんだろう? 新しい世界を創造するために。ちょっと恐いね」


 そのとき南条のスマホから短い着信音が鳴った。メールだろう。

「失礼」と断り、南条は自分のスマホを確認した。


 一読してから、こう言う。


「『SAKURA』の発表会の件だったよ。本番は来週末だ」


 すっかり忘れていた。ピラミッドの暗号解読コンテストも同時に行われる。あとで急にいなくなったことを、望月とハム子にも詫びておこう。


「まあデータは複製できるし、渡せないこともないが」


「本当ですか!」


「ただし『SAKURA』は権利ごと売却する予定だったんだ。複数に同じものを売るわけにはいかないんだから、買いとってもらわないと困る。他よりも高額でね」


「彼らは三億円を出すそうです」


「ほう……」


 さすがに平静でいられる金額ではなかったようだ。ほんの五秒ほどだったが、南条は宙の一点を見つめながら黙りこくった。


 そして、こう言った。


「わかった、話し合いに応じよう」


「ありがとうございます」


「『SAKURA』をなんに使うのか、開発者としては純粋に興味があるしね」


「では先生をヘドロ島にお連れします」


「頼む」

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