第38話 父と子

 結局こうなるのか。


 木造アパートのドアの前に立ち、しばらく伸ばした手を動かせなかった。


(晴子の服を借りるだけだ)


 意を決し、静かにドアを開けた。


 まっすぐ伸びる廊下の突きあたりにリビングがある。そこからテレビの音が漏れていた。きっと和樹だ。いつもなら日中の早い時間は、ヤクザみたいな連中とつるんで外でなにかをやっているのだが、運が悪かった。


 晴子の部屋はリビングの手前にある。気づくなよ。祈りながら廊下を進んだ。


 晴子の部屋のドアを開けようとしたときだった。「ヘドロ島なんか沈めちまえ!」和樹の声が聞こえて、夜はフリーズした。しばらく壁と同化する。テレビに向かって言ったのだ。ワイドショーでも観ているのだろう。


 夜はドアを開け、晴子の部屋へ入った。ベッドの下の収納箱から、適当に服を引っ張り出し、紙袋に突っ込んで部屋から出た。


 ミヤコが立っていた。リビングと廊下の境から、じっと夜のことを見ていた。


 彼女はよれよれの白いワンピースを着て、裸足だった。ぼさぼさの髪で、落ち窪んだ眼窩にはピンポン玉をはめ込んだような大きな眼球が白く光っていた。


「お兄ちゃん?」


「……その呼び方、やめろよ」


 夜が言うと、ミヤコは悲しそうに目を伏せた。


「誰かいるのか」


 和樹の声がした。しまった。夜は唇を噛む。

 

 ふらっと現れた和樹は、夜を認めると不機嫌そうに「てめえ、いままでどこにいた」と詰問した。


「姉ちゃんから聞いてないのかよ。研究室のイベントの準備で忙しかったんだ」


「それで二週間も帰れないのか? まあいい」和樹は鼻を鳴らすと、夜にこう命じた。「晴子が作っていったシチューを温めろ」


「それくらい自分でやれよ」


 そう言った瞬間だった。和樹の拳が顔面にめり込んだ。


「次ナメた口をきいたら、ぶち殺すぞ」


 焼けるような痛みが左の頬の裏側に広がった。血の味もした。尻を床につけて父親を見上げる自分は、ひどく惨めな姿だろう。夜は自虐した。


「母さんが怯えるだろ」


 ミヤコは和樹の横ですくみあがり、ぬいぐるみを抱きしめていた。


「てめえがいなかったせいで、こいつが何年かぶりに台所に立ったぞ。シャケを焼くように言ったんだ。皮に焦げ目がつくくらいにと注文もつけてな。そしたらどうなったと思う。このバカ女、グリルを焦がしやがった。もう少しで火事だったぞ」


 和樹はわざとミヤコの耳元で怒鳴った。ますます彼女は怯え、クマのぬいぐるみをきつく絞めた。


「わかったよ、シチューを温めればいいんだろ」


 夜は和樹の脇を抜け、台所へ向かった。コンロの火をつけたとき、和樹の声がした。


「ついでに米も炊いておけ」


「シチューに米はいらないだろ。いつもシチューのときは食べていなかった」


「そうだったか? まあいい」


 和樹はリビングに戻り、またテレビの前に座った。そしてふり返らずに言う。「酒がねえが金もねえ。おい夜、また学校の名簿を売ってこい」


「もう売る名簿は残ってない」


「うそつけ。小学校からの全部のクラス名簿だぞ」


「もうない。あんたに言われて全部売った」


「全部だあ?」


 和樹は言うが、すぐに笑いだした。「親の酒代のために同級生を売ったのか。さすがおれの息子だ」


 うしろから袖を引っ張られた。ミヤコが目に涙を溜めて立っていた。


「やっぱり家族はいっしょじゃなきゃなあ」大声で和樹が言った。「おまえはおれの息子だ。なにが大学だバカやろう。トンビの子はトンビだ。わかったらあつあつのシチューを持ってこい」


 コンロの火を止め、夜は皿に注いだシチューを和樹のもとまで運んだ。それを見ながら満足そうに和樹は缶酎ハイをあおった。


「少し出かけてくる」


 夜は和樹に言った。


「すぐに戻ってこいよ。ここはおまえの家だからな」


 にやりと和樹は笑った。


 廊下に出ようとすると、またミヤコに袖をつかまれた。だが夜はそれをふり払い、逃げるようにして玄関まで走った。


 ドアを開けて外へ出ると、通路の手すりにマギが座っていた。


「遅かったな」


「公園で待っているんじゃなかったのかよ」


「あれはうそだ」


 いつものすました顔でマギは言った。だがそんなことよりも、びしょびしょに服が濡れて下着まで透けそうだった。公園にいられるよりかはよかったかもしれない。


「着替えだ」


 夜は服の入った紙袋を彼女に渡した。


「口の怪我はどうした」


 マギが気にしたが、夜は聞き流した。


「うちの玄関で着替えるか? 父親がいるけど、たぶんバレない」


「かまわん、ここで着替える」


「おい待て――」


 おかまいなしにマギはドレスを脱ごうとしたので、慌てて夜はうしろを向いた。


 なんて女だ。がさがさと衣擦れの音が聞こえた。夜は平常心を保とうと、アパートの壁にできた黒いシミを見るのに集中した。シミは翼を広げたワシのようだった。


「この世界を破壊したいか?」


 マギの声がした。


「急になんだよ」


「暗号を解いたのはおまえだ」


「壊せるものなら壊したいさ、こんな世界」


「なら叶えてやろう」


「本当か?」


「うそだ」


「またそれかよ」


 夜はため息をついた。


「ここで着替えるというのもうそだ」


「おまえな!」


 夜はふり返った。するとドレスの胸から上がはだけて、ブラジャーをあらわにしたマギがいた。慣性を殺さず、くるっと一回転して、壁に向かい叫んだ。


「このうそつき女!」


「おもしろいやつだ」


 なにがおもしろい。こいつはきっとホームセンターの水槽で泳ぐ熱帯魚を見かけるたびに、指の動きでおちょくって笑うタイプだ。夜は歯ぎしりした。


「有村夜、一つだけ本当のことを教えてやろう」


「どうせそれもうそだろ」


「ピラミッドの暗号は覚えているか? なぜあんな仕掛けが古代から存在したのか。いったい誰が建造したのか。目的はなんなのか。私はその秘密を知っている」


「なんだよ」


「この時代に私とおまえが出会うためだ」


「前にも聞いたよ。誰が信じるもんか」


 夜は吐き捨てると、アパートの階段を下りた。


 父親から殴られたうえに、半裸の女からからかわれて、メンタルはぼろぼろだった。階段を下りきったところで座り、そこでマギが着替え終わるのを待つことにした。


「ねえ」


 声がした。

 知らない少女が、道路に立っていた。

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