第39話 更科
「そこの自販機、故障してるんだけど」
パーカーのポケットに両手をつっこみ、彼女は少し離れた位置で、ガムを噛みながら夜のことを見ていた。
中学生くらいか。
前を開けたパーカーの下にタンクトップを着ていた。
すらっとした脚を膝丈のスパッツが覆い、靴は少し汚れたスニーカーだ。
こういうのをストリート系のファッションというのだろう。活発そうな女の子に見えた。
なぜ自分に話しかけてきたのかわからず、夜は返事せず、様子を窺った。
「ねえってば。聞こえなかった? もしもーし」
少女は少し怒ったように口をすぼめた。
彼女のガム風船がふくらみ、割れた。
ようやく夜は返事した。
「聞こえていますけど、なにか用ですか?」
「だから自販機が故障してるって言ってんの」
少女は背後にあるジュースの自販機を親指で示した。「お金を入れたのに、どうしてくれんのよ」
「そんなこと言われても」
「ここの住人でしょう? こっちは喉が渇いて死にそうなの。なんとかしてよ」
「悪いが忙しいんだ。他をあたってくれ」
「あーそう。じゃあここで野垂れ死んでやるから。《住人に見殺され志半ばで死す》って慰霊碑を建ててもらうわ。あんた良心とか痛まないわけ?」
少女は眉を六十度に立ててわめいた。
まためんどうな人間に絡まれた。
夜は立ち上がると、自販機まで歩いた。
ぱっと見はなんの異変もなかった。とりあえずコインを入れてみよう。夜は財布をズボンのポケットから出した。
百円硬貨が見つからず探していると、少女がまた話しかけてきた。
「お兄さん優しいんだ」
「そりゃどうも」
「怒られるかと思った」
「きみはこの街の人間じゃないだろ。女の子が一人、なんの用で来たんだ」
「そっちが名前を教えてくれたら、教えてあげる」
「なんで名前なんて知りたいんだ」
「この時代に私たちが出会えた記念」
コインを投入しようとした夜の手が一瞬止まる。「おおげさだな」
「ロマンチックでしょう? まあ聞かなくても知ってるんだけど」
コインが自販機に吸い込まれた。赤いランプが点灯する。壊れているようには見えなかった。試しにミルクティーのボタンを押してみると、商品が落下してきた。
「あんたの名前は有村夜。ヘドロ島で悪い人たちとつるんでる学生よ」
おまえ、何者なんだ。夜はふり返ろうとした。
だがそのとき何者かの手が肩に置かれた。
「有村夜だな」
その声と同時に、右腕をうしろにまわされた。その直後、強い力で自販機に体を押しつけられた。前歯を強打し、痛みで情けない声が漏れた。
首をまわして相手をたしかめる。サングラスをかけた背広姿の大男だった。
「ついてきてもらう」
男の腕力はすさまじかった。まるで首根っこをつかまれた猫のように、夜はなすすべなく運ばれた。
角を折れた先に一台の黒い乗用車が止まっていた。その車の後部座席に、夜は頭から放り込まれた。
すでに乗車していた人間の肩と顔面がぶつかる。
「いってえな」
聞き覚えのある声がした。
二度と聞きたくなかった声だ。
「よう小僧。ヘドロ島でじゃれあって以来だな」
三ツ矢だった。
瘦せこけて死神じみた顔は、嫌でも忘れない。
不健康そうな痩せた歯ぐきをむき出しにし、三ツ矢は再会を喜んだ。
「なんであんたがここにいる」
「ある人物から警察に保護を求める通報があった。ヘドロ島のテログループから脅されてるってな」
南条だ。あっさり裏切ったのか。夜は自分の愚かさを呪った。
「ヘドロ島関連の情報はすべて、内閣府のヘドロ島対策チームに送られる。おれはそこの主任でな。安心しろ。警察はまだこの情報を知らない」
助手席のドアが開き、さっきの少女が乗り込んできた。
「三ツ矢、こいつが例の二号機の操縦者?」
「いいや、こいつは“犬”だ」
「また飼うの? サイテー」
少女はけたけた笑った。
それから夜のほうを向き「お手。ねえ、お手は?」と手を差し出してきた。
「なにが目的だ。逮捕するんじゃないのか」
彼女を無視し、夜は三ツ矢に問うた。
「逮捕なんてしねえよ。そもそもおれは警察じゃない。おれにはおれのやりかたがある」
そう言って三ツ矢は、針金のような細長い脚を組みなおした。ポケットからアメをとり出し「食うか?」と言う。夜は断った。
「いいか小僧、世の中最後に生き残るのは強い人間じゃねえ。賢い人間だ。これからおまえにチャンスをやる。おれの犬になれ」
「どういう意味だ」
「犬ってのは忠実で献身的だ。あとはわかるだろ」
「もし拒否したらどうなる」
「箸で豆をつかむみたいに、平穏という二文字がつるんと逃げる。テログループとの関係を実名で報じられてみろ」
「三ツ矢は犬をたくさん飼ってるのよ」少女が言った。「大企業の重役にもいるし、政治家にもいる。ヤクザにもね。みーんな三ツ矢に尻尾ふって、ごほうびをもらいたがるわ」
「おまえで十三匹目だ。いや十四匹目だったかな。まあいい。おまえに与える仕事は簡単だ。木の根元の穴倉から、うさぎを引きずりだすくらいにな」
三ツ矢はにやりと笑う。やはり犬歯がむき出しになり、悪魔とか死神とかにしか見えない人相となった。
「ヘドロ島の弱みを教えろ。連中にとって致命的なもの、大事なもの、守らなければならないものだ」
「知らない」
「知らないなら探ってこい。これから南条教授といっしょにヘドロ島へ戻るんだ」
「なんで教授が――」
「教授は政府に協力的でな。国の研究予算と引き換えに、スパイを自分から買って出てくれたよ」
もう聞きたくなかった。だが三ツ矢は追い討ちをかけてきた。
「窓の外を見ろ」
三十メートルほど離れた先に、帰宅途中の晴子がいた。大きく膨らんだエコバッグを持って、さっきのサングラスをかけた大男と話していた。その表情には、戸惑いや不安が浮かんでいた。
「歳の離れた姉か。おれは一人っ子だったからなあ。ああいう凛としたお姉さんに憧れたもんだぜ」
「姉ちゃんになにをした」
「まだなにもしちゃいねえよ」三ツ矢は笑うと、アメを舌で転がしながら続けた。「おまえの姉も調べさせてもらったよ。彼女が勤める六本木のクラブだが、よーく知ってる。オーナーは源田っていうクソ野郎だ。中国マフィアの子飼いで、人気の嬢を幹部に献上する習慣がある。最初は楽しく酒を飲んでおしゃべりするだけだが、慣れてきたら源田は嬢にこう持ちかける。相手は金も権力もある、どうだ? とな。だいたいの女は落ちる。中国人は気前がいい。それにセックスも最高なんだ。あいつらベッドでコカインをやるのが好きでな。おれも若いころ一度経験したが、ありゃ病みつきになるぜ。おまえの姉さんはどうかな?」
「姉ちゃんは関係ない、近づくな」
「いいねえ、おれの見立てどおりだ。おまえの弱点は姉か」
「クソ野郎め」
「おれは裏社会にツテがある。ちょっとしたウワサを流すだけでも、おまえの姉ちゃんを追いつめられるぜ。たとえば警察とつながってるってウワサを、中国マフィアに垂れ込めばどうなる? 源田は保身のために彼女を差し出すぞ。きっと死ぬほど恐いめに遭うだろうな」
ヒヒヒ、と三ツ矢は爬虫類のような青黒い舌で自分の唇をなめた。
「わかったらヘドロ島の弱みを見つけてこい。やつらを内部からバラバラにしてやる」
「ねえ三ツ矢、二号機の操縦者についても喋らせてよ」
少女が言った。
「この犬はまだ調教中だ。あまり多くを求めてやるな」
「じゃあこいつも、いつか他の犬みたいに、三ツ矢の靴を舐めるようになるの?」
少女は大きな瞳をぐりぐり動かし、三ツ矢と夜のことを交互に見た。あどけなさの残るかわいらしい顔だちだったが、そのせいで邪悪な言動がきわだつ。
ペットショップで見つけた子犬にでも話しかけるように、少女は無邪気な笑みを浮かべ言った。
「私の名前はサラシナ。『夕風』の操縦者よ」
「夕風?」
「紅いEXOギアよ。あんたもヘドロ島で見たんでしょう」
あのEXOギアのパイロットか。たしかに純粋な邪悪さは同じに感じた。
「次も勝つから」サラシナは鼻孔をふくらませた。「夕風は二号機の“お姉ちゃん”だもん」
「いいか犬」
もうご主人様きどりで、三ツ矢が軽蔑の混じった目で話しかけてきた。
「おまえたちは『原始の炎』の恐ろしさを知らない。あれは世界すらも焼き尽くす業火だ。火遊びじゃ済まねえんだよ」
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