第50話 日没

 トラックの動きに合わせて、上空の夕風も方向転換した。


 いいぞ、ついて来い。夜はスピードを抑えぎみにして、彼女を誘い出した。


 夕風がまた急降下してくる。乃雨は左足を引いて、両腕を広げた。その体勢に驚いたのか、サラシナは速度を緩めた。だが止まることはできず、ヴァルナの厚い胸に吸い込まれた。


「つかまえた!」


 すかさず乃雨は両腕で、夕風の細い体を締めあげた。


「離せ、こいつ」


 じたばたと暴れる夕風だったが、パワーで勝るヴァルナにはかなわない。それでも必死のもがきで右手だけは抜け出せた。その右手で持っていたナイフを、ヴァルナの胸に突き立てた。


「う」に濁点をつけたような押し殺した声が、夜のイヤホンから漏れた。


「大丈夫か、乃雨」


「私のことはいいから、あんたは自分の仕事に集中して」


 首筋に狙いを定めたサラシナから、乃雨は何度も刺された。そのたびに激痛から悲鳴が漏れる。しかし決して彼女はサラシナを離そうとはしなかった。


「なんなのよ! なに張りきってんのよ、ムカつく!」


 半狂乱になりながらサラシナはナイフをふり下した。


「私には守りたいものがある。あんたにはないでしょう」


「あるわ。夕風も私も、大人たちから一度捨てられた。だから自分の価値を証明しなきゃいけないのよ」


「価値ってなに? 権力の犬になること?」


「おまえになにがわかる!」


 サラシナは乃雨の顔にめがけてナイフをふり下そうとした。


 そのときだった。一瞬、目の前でなにかが弾けたように、閃光が走った。


 夜はマギのほうを見た。同じ現象が起こったらしく、マギも驚いた表情で見返してきた。


「いまのはなに?」


 サラシナも見えたらしく、動きを止めて怯えた声を出した。


「あんたの負けよ」


 乃雨はサラシナから離れると、ジャンプして頭上を通りかかった道路標識の鉄柱につかまった。


「やって!」


 その乃雨の声で、夜はアクセルを踏み込んだ。「備えろ!」


 同時にハンドルも大きく左に切り、橋のアーチに車を突っ込ませた。フロントガラスが飛び散り、エアバッグが飛び出てきた。


 夕風は慣性で、橋の外へ吹っ飛んでいった。その下には隅田川だ。東京湾に注ぐ河口で、大型観光船も悠々と航行するほど広い。大きなしぶきを上げ、紅い機体は川にのみこまれていった。


 どこにも痛みはないし、意識もはっきりしていた。マギを呼んでみた。ちゃんと生きているとわかり、夜はホッとした。


 トラックから降りて、欄干の前に立った。すっかり日も落ち、あたりは暗かった。夕風をのみこんだ隅田川は、なにごともなかったように悠然と流れていた。


「金属だから水に沈む。当然のことだな」


 マギもとなりに立って言った。


「水中でも動けるかもしれない。早くここを離れたほうがいい」


「二人とも、私の近くに来て」


 重みで鉄柱の折れ曲がった道路標識の下に、ヴァルナは立っていた。


「乃雨、体はなんともないか?」


「ええ。それよりも急ぎましょう。私がヴァルナで南条のもとまで送るわ」


「たぶんコンテスト前だし、大学の研究室で仕事中だと思う」


「じゃあ大学に行きましょう。私が抱えて全速で走れば、数分で着くわ」


「いちおう訊くけど、安全性はたしかか?」


「試したことがないから、安全とも危険とも言えない」


「どっちにしろ世界初だ。ニュースになるぞ」


 マギは笑みを浮かべ、乃雨のもとへ歩いていった。


 やれやれ。骨の一本くらいは覚悟するか。夜もマギのあとについて歩いた。


 ヴァルナは右手で夜、左手でマギをつかんだ。


「出発する前に訊きたいんだが」


 夜は乃雨に訊ねた。「感じたか? さっきの――」


「感じたわ。まるで相手のBMIと感応したみたいだった」


「共振だ」


 マギが言った。


「つまり二つのBMIから発せられる電磁波が共振で増幅されて、外の人間の脳にまで干渉したっていうこと?」


「おそらくな。病院で使うMRIも、電磁波を人体に共振させる装置だ。もしかするとBMIは、人間の”心”にまで干渉するのかもしれん。私たちの心は、あの瞬間BMIを介して一つになったのだ」


「まさか、心が共振するなんて」


「考えるのはあとだ。いまは急ごう」


 夜は言った。


「わかった。しっかりつかまってて」


 乃雨は走り出した。……と思ったら、ビルに向かって大きくジャンプした。屋上に着地すると、そこからまた次のビルへと飛んだ。


 東京の夜景がぎっこんばったんと激しく上下に揺れ、乗り物酔いのおかげで、夜は恐がる暇もなかった。

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