第7話 その名は”SAKURA”

 ハム子の協力により、想定以上の早さで仕事を終えることができた。


 夜は一冊のノートをハム子に見せた。ピラミッドの暗号解読についての考察を書き溜めたノートだ。


 よほど意外だったのか、ハム子は目を丸くして「そんなに有村さんがピラミッド好きとは思いませんでした……」と小声で漏らした。


「そりゃ興味くらい持つさ。望月先輩があれだけ大仰だと」


「有村さんは信じますか? ピラミッドの暗号を解くと人類が滅びるって」


「まさか」夜は噴きだした。「じゃあなんで望月先輩は、暗号解読コンテストを企画したんだ」


「先輩は『最後まで解読しない。途中でやめる』っていうし」


「ハム子ちゃん、よく聞いてほしい」


「なな、なんですかあ」


 急にまじめな顔で目を覗き込まれ、ハム子はわかりやすくどぎまぎした。


「暗号とかけて、卵ととく」


「……その心は?」


「といたほうが”美味しい”」


 すたすたと歩き出した夜。


 彼がなにをするのかと思って見ていたら、南条教授のデスクの引き出しを勝手に開けようとするから、ハム子は慌てた。


「まずいですよお」


「大丈夫。バレないバレない」


 引き出しからとり出したのはUSBメモリだった。


「ハム子ちゃん、これがなにかわかるかい?」


「南条先生が開発した暗号解読ソフト『SAKURA』ですう……」


「そのとおり。これを使ってピラミッドの暗号を解読していく」


 南条教授が開発した『SAKURA』は、それまで困難とされていた素因数分解を超高速で行う画期的なプログラムだ。


「これで世界中の諜報機関から命を狙われるかもな」


 などと本気か冗談かわからないトーンで語っていた南条教授だが、まさか鍵もかけず自分の机の引き出しに入れっぱなしとは誰も思うまい。


「見てたんだ、南条先生がいつも『SAKURA』を引き出しに入れるのを。鍵もかけないし、もしかしたらって思ってた」


「不用心すぎますよお」


「天才って、どこか抜けてるもんさ」


 南条はアメリカ生まれで、若き元凄腕ハッカーという異色の経歴を持つ。「お公家さん」の愛称も持ち、童顔でつるるつるした白い肌とやわらかな物腰で、女子生徒から密かに人気だった。


「『SAKUAR』とやらの威力、見せてもらおうじゃないの」


 夜はノートパソコンにUSBを差し込んだ。

 プログラムを起動し、コンソールを呼び出す。


 ハム子が夜の背後からディスプレイを覗き込んだ。


「使い慣れていますねえ……」


「こっそり練習していたからね。さあ、はじめようか!」


 夜はノートを手元にたぐり寄せた。


 最初のページを開いて、「ハム子ちゃん、現在世界で主に使用されている暗号って、なんだかわかるかい?」と訊いた。


「むむ、急に先生みたいなこと言いますね」


「情報学部生なら当然、答えられると思って」


「当然わかります。公開鍵暗号方式です。その中でも素因数分解を利用したRSAが、最も代表的な暗号です」


「正解」


「まあ、南条先生は公開鍵暗号方式の専門家ですし、私は教え子ですから」


 えへん、とハム子は胸を反った。


「じゃあ公開鍵暗号方式とはなにか、言える?」


「えっとお……あえて鍵を公開して、それで暗号化する……でしたっけ?」


「だいたい合ってる。誰でも知ってる公開鍵と特定の者しか知らない秘密鍵とで構成されていて、公開鍵は暗号化するための鍵、秘密鍵は複合用の鍵だ。たとえば、ぼくとハム子ちゃんと望月先輩とでグループを作り、南条先生の暗殺を話し合うとする」


「物騒すぎますよお」


「たとえばの話だよ。ぼくらは何回も綿密に話し合う必要がある。でも話は絶対に外部へ漏れてはいけない。そこで使うのが公開鍵暗号方式だ。


 公開鍵は『今夜、先生のドリンクに毒を入れる』という文章を『莉雁、懊?∝?逕溘?繝峨Μ繝ウ繧ッ縺ォ豈偵r蜈・繧後k』というふうに暗号化するための鍵だ。これは秘匿しなくてもいいし、むしろ利便性を考えたら公開するのが好ましい。


 いっぽう秘密鍵は『莉雁、懊?∝?逕溘?繝峨Μ繝ウ繧ッ縺ォ豈偵r蜈・繧後k』をもとの文章に戻す複合化用の鍵だ。これは、ぼくら三人しか知らない。だからこの暗号文を複合化して『今夜、先生のドリンクに毒を入れる』って読めるのは、ぼくら三人だけってわけ。こうして暗号通信を安全かつ便利に行うことができる。これが公開鍵暗号方式の基本だ」


 夜はノートの二ページ目を開けた。そこにはクフ王の大ピラミッドを示す大きな三角形と、『公開鍵?』という自筆の走り書きが残っていた。


「ピラミッドは公開鍵だ。とんでもなく目立つうえに、何千年ものあいだ原形を留めている。まさに理想的な公開鍵だよ」


「なるほどお」ハム子は目を丸くした。「古代エジプト人は、立派ですねえ。私たちが大学で学んでいることを、大昔に知ってたんですから」


「だから異星人がピラミッドを建設したって、望月先輩は本気で言ってる」


「そうでした」


 ハム子は苦笑した。


「それどころかあの人、ピラミッドの暗号を他の誰かに最後まで解読されるのを恐れて、南条先生にもくわしい情報を教えていない」


「そうだったんですか」


「だからこうやって独自に研究してたんだ。今日はその集大成。じゃあ続けるとしよう。ピラミッドを公開鍵だと仮定するとして、肝心の秘密鍵をぼくらは知らない。これじゃ前へ進まない。じゃあどうするか? そこで数学の出番さ」


 夜はさらにノートの次のページをめくった。


 びっしりと隙間なく書き込まれた数式を見て、うううとハム子から呻きなのか感嘆なのかわからない声が漏れた。


「公開鍵から秘密鍵を計算して導きだすことは可能だ。これを見てくれ」


 夜はノートに書かれた一つの数式を、ペンで示した。



  M=CD (mod N)



「秘密鍵がD、公開鍵がNだ。公開鍵Nを素因数分解することでN=PQを求めることができ、(P-1) (Q-1)を計算することでθ(N)も求められる。そこから拡張ユーグリッド互助法で、秘密鍵Dを――」


「あの……ちんぷんかんぷんですう」


 ハム子はギブアップした。


「わからなくてもいいよ。これはコンピュータに計算させるから。とりあえず計算式はこうってこと」


 さて、ここからが問題。


 言うと夜は、いったんペットボトルの水を飲んだ。口の中を十分に潤すと、またペンの先でさっきの数式をなぞった。


「公開鍵Nの値を特定しないと計算はできない。その数値は大ピラミッドに隠されているはずだ。望月先輩の話を思い出してほしい。『立方体を球体に移す原理』ってやつ。あれで登場した4/3πが”鍵”なんじゃないかって閃いたんだ」


「つまりNに4/3πを代入するんですか?」


「そう。けどπは無理数だ。このままじゃ使えない」


「じゃあどうするんですか?」


「ハム子ちゃんは『朝は四本、昼は二本、夜は三本、この生き物は?』ってなぞなぞを知っているかい?」


「それなら小学校で流行っていました。たしかスフィンクスが、通りかかる人間に出題するんですよね。もし答えられなかったら食べられるっていう」


「うん。世界的に知られるなぞなぞだ。元ネタはエジプトの古い伝承らしい。この【4,2,3】という数字は、太陽系の第四惑星、第二惑星、第三惑星を表わすメタファーじゃないのかな。また望月先輩の話を思い出してほしい。ギザの三大ピラミッドは、最も小さいメンカウラー王のピラミッドが火星、カフラー王のピラミッドが金星、そしてクフ王の大ピラミッドが地球を表しているっていうやつ。ちょうど火星は太陽から四番目に近い第四惑星で、金星は太陽から二番目に近い第二惑星、地球は三番目の第三惑星だ。しかも三大ピラミッドは、南から順番に『メンカウラー(第四)、カフラー(第二)、クフ(第三)』という【4,2,3】の配置なんだ。単なる偶然にしてはできすぎだと思う。


「ふぇ……有村さんって棒術もできるし、頭だっていいんですねえ」


「まだ正解と決まったわけじゃないよ。とりあえずπを423桁で区切り、合成数として考えよう。できあがった4/3πをNに代入し、いよいよ『SAKURA』の登場だ」


 夜はノートパソコンのキーを叩いた。

『SAKURA』に数値を打ち込み、素因数分解を実行させた。


「計算完了までにコンビニで夕飯を買ってこよう。約束どおりジュースをおごるよ」

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