6話 祈り
「……この街を去ろう」
彼は立ち上がり、ヒズルを促した。
その言葉は、残酷な未来を示唆している。
街は滅びる。
産まれた家、壁に刻まれた『女神さま』の御姿、住民たち――
全ては失われる。
なのに、止められない。
自分の無力さに――ヒズルは、途方に暮れる。
「ヒズルが困っているぞ……名も無き『アンクウの
『テオドラ』は白く輝く
「最後に……お前に『名』を与える。『バシュラール』……それがお前の『名』だ。この街の『
『テオドラ』は俯き、二人に背を向けた。
その途中――黒い瞳に浮かぶ涙を、ヒズルは見たような気がした。
「行け。ヒズル……振り返るな」
『テオドラ』の言葉に、馴染みのある声が被さる。
いつしか、四方から――住民たちが集まって来ていた。
黒い
「そなたらの罪は赦された……空に還ろう……」
彼女は、人々に呼び掛けた。
動めく黒髪に埋もれた後ろ姿は――なぜか『女神さま』を思い起こさせる。
顔は見えないのに、慈悲深い『女神さま』に似ていると感じる。
バシュラールは、見入るヒズルの肩を軽く押した。
ヒズルは……首を縦に振り、同意を示す。
全てを理解するのは、今は不可能だ。
何が正しく、誰が悪いの分からない。
けれど、生きなければならない。
生きるしかない。
この街の記憶、人々が生きた証を遺そう。
バシュラールと……行こう。
今は、ひとりでは生きていけないだろうから。
彼らが三十歩を歩くと、人々の喘ぎが止まった。
そして五十歩を歩くと、空の渦巻が激しくなった。
さらに八十歩を歩くと、背後が輝く白に染まった。
バシュラールが、ヒズルを抱き締める。
「目を閉じて」
言われた通り、ヒズルは瞼を固く閉じる。
風と土が弾け、地に刺さった杭がぶつかる音が響く。
濁流と化した風は、ヒズルの
しかし――バシュラールの腕と広げた髪が、それを押さえ込む。
ヒズルは『
――満ちていた腐臭は、残らず吹き飛ばされた。
――風も静まり、あのニオイが軽やかに漂ってくる。
「ゆっくり……目を開こう。もうすぐ、夜が明ける」
バシュラールが告げ、ヒズルから手を離した。
ヒズルが瞼を上げると……見たこともない光景が広がっていた。
『女神さま』の瞳に似た色の空が、頭上にある。
それは果てしなく続き、遠くには三角形の壁のようなものが見える。
その後ろには、赤い丸いものが光っている。
異景に見入っていたヒズルは、喉を刺す風の冷たさに咳き込んだ。
けれど、嫌な冷たさじゃない。
目が覚めるような、心地の良い冷たさだ。
見下ろすと、足元には不思議なモノで埋め尽くされている。
ヒズルの背丈の半分近い高さの、奇妙な色と形をしたモノ。
しかし――あの良いニオイを発しているのは、間違いない。
「これは……」
「植物だ。君に与えた『
バシュラールは言い、ヒズルは腕を伸ばして、それに触れる。
それは柔らかく薄く、不思議な感触だ。
けれど……ヒズルは振り返る。
『街』が在った所には――何も無い。
碧い空と、植物……それしか無い。
鋼の杭も、赤と黒の渦巻く空も、腐臭を放つ風も、すべて消えてしまった。
すると――『
ヒズルは植物に腰を下ろし。『
そこには、先程にはなかった文字や絵が記されていた。
驚きつつも、『テオドラ』の言葉を思い返す。
「そなたの見たもの、聞いたこと、感じた全てが『
「……僕の家だ……」
『
そこには、ヒズルの家の入口、部屋に並ぶ寝床、『女神さま』の彫像が描かれ、間には文字も記されている。
横の頁には、テオドラの横顔も載っている。
街の風景も、泉に集まる人々も。
いずれの絵も、美しく彩色されている――ヒズルが見たこともない色で。
「みんな生きてた……お母さん……お父さん……おじいちゃん……」
ヒズルの涙が、『
しかし、それは直ぐに紙に染み込み――後を残さずに消えた。
水も炎も、『
空の最果てに在る光を発する丸いモノが、少し高さを上げた。
明るさも増し、『
ヒズルは顔を上げ、碧い空を眺めた。
バシュラールの白い髪が風に羽ばたき、ヒズルは『
バシュラールが何者かは分からない。
『テオドラ』の言葉も理解しきれない。
けれど、進まなくてはいけない。
――そなたが生き延びれば、この街は滅びたことにはならぬ……生きよ……
『祈り』は託された。
生きて、真実を見つめるために――彼は立った。
† 次章に続く †
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