4話 原罪

 ヒズルは目覚めた。

 広くはない部屋は、あのニオイに満たされていた。

 瞼を上げると、ニオイの主の……天使さまの横顔も見えた。

 

 眠っている間に天使さまが去ってしまわれたら――

 それを心配していたヒズルは安堵し、笑顔で身を起こす。

 天使さまは――彼が眠る前と同じ姿勢で座っていた。

 傍らの『女神さま』と同様に、微動だにしていない様子である。

 

 ヒズルは、床に垂れた真っ白い御髪かみに手を伸ばし、触れてみた。

 無礼だと分かっていたが、細く柔らかなそうな御髪かみを触りたかった。


 触れると、それは重さが無かった。

 これは『翼』なのだろうか――と思う。

 『女神さま』の『翼』も、このように軽いのか――と。



「よく眠れたかい?」

 天使さまは言う。

「先ほどの『露玉つゆだま』を、もう一つあげよう」


「いいえ……おなかは空いてません」

 ヒズルは顔を上げ、畏まって首を振った。

 お腹が空いていない時は、何も口にしないようにしていた。

 口に出来るのは、黒い水だけだが――

 『異形』となる前の父の言いつけを守ってきたのだ。

 

 空腹に耐えられなくなった時だけ、少しずつ水を飲みなさい――

 お前には……少しでも長く、人として生きて欲しい――



「お父さんは、そう言いました……」

 ヒズルは、温もりを懐かしむ。

 おじいちゃんも居た頃は、三人で身を寄せ合って眠った――



「そろそろ、行こう……」

 天使さまは立ち上がる。

 ヒズルは腕を伸ばして身を支え、背の高い天使さまを見上げた。

 天使さまは、ヒズルに優しく語り掛ける。


「……君は、賢い子だ。これから起きることを理解し、権利を行使して欲しい」

「……けんり……こうし?」

 ヒズルは聞き返す。

 難しい言葉は理解できないが、自分にとって辛い意味が含まれていると察する。

 

「……ヒズル。僕は、この街の『シン』を壊すために来た」

「……え?」


「『シン』を壊せば、街も壊れる。君には、自分の運命を選ぶ権利がある」


「こわすって……どうしてですか!? 僕たちが『罪人つみびと』…だからですか…?」

「君たちには、罪は無い。だが……僕たちは、忌むべき存在だ。僕たちが『世界』を壊す前に、全ての『シン〗を壊さねばならない」


「待って……天使さま! この街のどこかに、おじいちゃんとお父さんが居ます!」


「もう……お亡くなりになっただろう」


 天使さまの言葉に、ヒズルは呆然とした。

 表情は強張り、喉が締まる。

 『異形』と化した祖父と父は、街のどこかを彷徨っている――罪を贖うために。

 なのに……それは間違っていると云うのだろうか?

 

「君が、父上から何を聞かされたか想像はつく。だが、それは嘘だ。その嘘を、住民たちに植え付けたのは『シン』だ」


「……そんな……」


「だが、悪意から出た嘘ではない……」

 天使さまは、白い手で顔に掛かる御髪かみを払う。

「ヒズル……僕は『天使』ではない。その真逆なる存在だ」


「……分かりません……」

 ヒズルは、地に目を落とす。

 天使さまの仰ること、その意味が理解できない。

 自分を救ってくれた、白い翼を持つ御方が『天使さま』で無いとしたら……



「ヒズル、僕はあの泉に行く。生き延びたければ……付いて来るんだ。自分の力で」


 天使さまは体の向きを変え、歩き出した。

 ヒズルは呆然と立ち尽くす。

 女神さまを、罪なき人を守るのが天使さまだ――

 この街には、まだ多くの住民がいる。

 街を壊されたら、その人々はどうなるのか。

 言葉も、意思も通じ合うことが難しい人々だ。

 それでも生きている。

 生きたくて、泉に集まってくるのだ。



「待って、天使さま……!」

 ヒズルは追いかける。

 天使さまは、すでに外に出たあとだ。

 ヒズルは……今一度、八つの寝床を見た。

 少し窪んだ硬い岩――

 『お母さん』から産まれた場所――


 そこにしばし触れ――外へと出る。

 


 

 


 風が吹きすさぶ街には、住民たちの姿は無い。

 泉の異変に慄き、寝床に隠れているのだろう。

 だが、生きる糧は泉の水だけだ。

 いずれは、出て来ざるを得ない。


 先を行く天使さまに付いて歩くヒズルは、空を見上げた。

 見慣れた空の色だ。

 赤と黒が吠えるように渦巻き、果てまでを厚く覆っている。

 自分はこの空の下で生まれ、『異形』となり、空の上にある『天国』に行く。

 それが定められた運命だと思っている。


 けれど、天使さまは言った。

 生き延びたければ、付いて来い――と。

 この『街』と『天国』ではない場所が、どこかに存在するのだろうか――

 ヒズルは四本の腕で地を進みつつ、二本の腕で風に揺れるはだを押さえた。


 やがて――地に刺さる杭の情景から、泉に近付いたと分かる。

 この距離なら、たむろしている住民がいるのだが、今は無人だ。



 ――風の音が強くなった。

 天使さまは足を止め、ヒズルもそれに倣う。

 少し先に、泉が見える。

 けれど、逃げ込んだ『塊』は今は見えない。

 

 確かめるべく、前に数歩進むと――轟音が降り注ぐ。

 天使さまの少し遠方に『塊』が――落ちる。

 地が揺れ、砂埃が大きく舞い上がる。


 息が詰まり、たじろぐヒズルの腕を天使さまは握った。

 ヒズルは口を押さえ、前に目を据える。

 

 大きな黒い『塊』は、うねっていた――風で泉の水が逆立つように。

 そのうねりの中から、何かが……這い出て来た。

 

 出て来たモノは――天使さまと同じような顔と手足を持っていた。

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