3話 空のような、海のような


 ヒズルの家は、泉から少し離れていた。

 倒れた杭が十字状に重なった隙間に、地下に続く入り口がある。

 ヒズルの体より少し大きい四角い穴で、その下には岩の階段が二十段。

 降りた所はガランとした空間で、ここで彼は休息し、眠る。

 中には『光る岩』が十個ほど置かれており、外よりも明るい。

 天使さまは――中央付近に置かれている石に座り、無言で室内を眺めておいでだ。

 

 

 ヒズルの寝床は、壁際の少し窪んだ硬い岩。

 岩の窪みは、父や祖父――祖先が寝た証だ。

 硬い岩の数は、全部で八つ。

 多い時は、八人が寝たのかも知れない。

 ヒズルの『お母さん』は、ここで彼を産み――死んだ。

 『お母さん』のはだは、ヒズルに受け継がれ、今もこうして一緒にいる。


 子供を産んだ『お母さん』は、死後は『女神さま』の家に迎えられるそうだ。

 そこで、『女神さま』のお世話をする。

 だから、『女神さま』の家には、大勢の『お母さん』が居る――。

 

 


「天使さま……なんにも無くて……」

 ヒズルは天使さまの前に立ち、頭を下げ――そのお姿を間近で眺める。

 

 天使さまは、黒いきぬで、お体を包んでいる。

 ヒズルのはだよりも薄く、表面が粘っていない。

 いいニオイは、このきぬに染み付いているらしく、室内にもニオイが漂う。

 

 その下にお召しのきぬは、ほんの少し黒味が混じって見える。

 奥の間の、石と同じ色だ。

 翼のように見えたかみは、側で見ると細い紐が集まったものだと分かった。

 『女神さま』の御髪かみも、このように綺麗なのだろう。

 とても柔らかそうで――畏れ多くも、手で触れたくなってしまう。


 そして、二つの瞳は碧だ――。

 キラキラしていて、この世のものとは思えない。

 『女神さま』も『天使さま』がたも、目の色は同じ碧だったのだ。

 



「ヒズル……君は、いつから独りで?」

 天使さまの声が仄暗い窟に響き、ヒズルは手で奥の壁を示す。


「よく……分かりません……」

 ヒズルは俯く。


「おじいちゃんが居なくなり……お父さんも居なくなりました……」

 顔を上げ、訴えるように声を張る。

 二人とも、罪を贖うために泉に向かい、戻ってこなかった。

 それは喜ばしいことだ、と思いたい。

 百年を耐え抜けば、『女神さま』に迎え入れられるのだから。


「ふたりとも、『異形』に……なりました……きっと……」

「……そうか……」


 天使さまは瞼を伏せ、入り口の反対側にある壁を見て――立ち上がった。

 ヒズルは、ばっと目を輝かせる。

 やはり天使さまはご存知なのだ、と。


「向こうに、『女神さま』が……ご覧になります…か?」

 まだうまく言葉が出ないものの、懸命に話しかけると、天使さまは頷いた。

 ヒズルは腕を伸ばして歩き、壁に向かう。

 壁の下側には穴が開いており、その向こうに『女神さま』がいらっしゃるのだ。



 自分に続いて、天使さまも壁の下をくぐられた。

 この部屋はやや横長で、壁の両端に『光る石』が置かれている。

 ヒズルは、笑顔で壁を見上げた。

 部屋の壁には、『女神さま』の御姿が彫られているのだ。



 その『女神さま』は薄衣を纏い、背を伸ばして立っている。

 右の御手には、長い棒のようなものを持ち、背中には六枚の翼がある。

 結い上げた御髪かみは、解けば足元に届くほど長いのだろう。


 そして『女神さま』の周りには、『鳥』と云う生き物が十二体が居る。

 『女神さま』を守る『天使さま』たちだ。

 その中の御一人が、目の前にいらっしゃる――。

 ヒズルは感激して、はだで目を拭う。



「これは……君の祖先が造ったのかい?」

 天使さまの問いに、ヒズルはちょっぴり誇らしげに言う。


「はい。でも、途中で……造れなくなって……」

「そうか……」


 天使さまは、『女神さま』の御姿を眺められる。

 『女神さま』の御姿は、天使さまよりも大きい。

 六枚の翼には、白い小さな石が貼り付けられている。

 そして御目には、碧い宝石が嵌め込まれている。

 それは、見る人の心を捉えて離さぬような美しい色だ。


「『アクウァ・マリーナ』と云う宝石だ……」

 天使さまは、『女神さま』の御目に手をかざして仰る。

「『空』と『海』を意味する。空のように澄み、海のように碧い……」


 その言葉は、ヒズルを大いに戸惑わせる。

 彼の知る『空』は、赤と黒が渦巻く鬱屈した暗い色だ。

 それに、『海』とは何だろう?

 どこかに、『海』と呼ばれる碧い何かがあるのだろうか――?



「……この文字は?」

 天使さまは屈み、『女神さま』の御足元に彫られた『文字』の列を御覧になる。

 文字は、五列ほど彫られているが……


「全部は分かりません……そこだけ……」

 ヒズルは、左端の壁を差す。

 そこには、壁から剥がされた痕がある。

 

 

 ――女神さまは、空の上から我らを見守っておられる。

 ――百年の時を異形として過ごせば、天国にて不滅の幸福が与えられよう。



「そこだけ……意味が分かるとこだけ……持ってました……」

 ヒズルは答えた。

 いつ、『異形』となってもいいように――

 『女神さま』に救いを求め、肌身離さず抱えていたが――



「あの『塊』から逃げる時、落とした、みたい……」

 気落ちして俯くが――ふと、思い出す。

 翼を出していらした時の天使さまは、手に細い鋼を持っていらした。

 それは、この『女神さま』の持つ棒に似ていた。

 天使さまは、自分を助ける時に落とされたのだろうか――?



「色々と教えてくれて、ありがとう……ヒズル」

 天使さまは、ヒズルの肩に手を掛けた。

「ここで、少し眠ろう……疲れただろう」


 天使さまは床に座り、ヒズルの頭を脚に乗せた。

 ヒズルは驚く。

 天使さまに頭を預けるなど、とんでもないことだ。

 けれど――天使さまの御体は、とても温かい。

 目を向けると、優しい眼差しで自分を見つめていらっしゃる。

 

「……天使さま……」

 目が潤む。

 お父さんに、最後に触れたのはいつだったろう――

 それを思うと、心が痛くて哀しい。

 

「……ごめんなさい……」

 非礼を詫びつつも――心地良さに、微睡まどろみへと引き込まれる。

 天使さまに比べたら、自分の姿はいびつに思える。

 そんな自分を、天使さまは包み込んでくれる。

 このまま、ずっとずっと眠っていたい――そう願わずにいられなかった。

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