2話 真白なる者

 『塊』は身を大きく震わせ、内から咆哮を発した。

 頭上を飛ぶ黒きころもぬしを貫くべく、素早く太い棘を伸ばす。

 そのまま落ちれば刺される、と憂いた少年だが――しかし思わぬ現象ものを見た。


 ひるがえる黒きころもの中から、色の無い大きなひふが現れた。

 ひふは大きく広がり、黒きころもぬしは高く浮き上がる。

 

 少年は目をみはる。

 あの色の無いひふを知っている。

 あれは『翼』と呼ばれるものだ。

 『女神さま』の背にある六枚の『翼』と同じだ。

 

 空を舞う黒衣のぬしの、腕が見えた。

 その先に、細い鋼に似た物を持っている。

 黒衣のぬしは腕を大きく振り、『塊』を鋼で突く。


 『塊』は甲高い声を上げ、悶え、反り返った。

 隠れるように泉に身を投じると、泉の黒い水は跳ね、ほとりに溢れる。

 泉にすっぽりと収った『塊』は、痛みに耐えるように震えている。

 まだ、生きているようだ――。

 

 

 少年は、顔を上げた。

 『翼』を持つ者は直立したまま――目前に、静やかに降りる。

 それは、『女神さま』の姿に似ていた。

 小さめの顔、その下にある体、二本の腕と二本の脚がある。

 体の形に合わせた薄いきぬを着て、その上に大きな黒いころもを纏っている。

 そして顔の上から生えた『翼』は、大きく広がって揺れていた。

 風に凪ぐきぬのように。


 そのかみの色こそ『白』だ、と少年は思った。

 『女神さま』の『翼』は白い、と教わったのを、ようやく思い出す。

 『白』は、『罪』を清める色だと。

 

 人の黒き罪によって血が流れ、空も地も、黒と赤に染まった。

 人は、漆黒のはだを持つ『罪人つみびと』に墜とされた。

 黒き水を飲んで『異形』となって罪を贖えば、女神さまに救われるのだ。

 

 

 少年は畏怖する。

 この御方こそ、『女神さま』なのだろうか。

 

 けれど、自分は罪を贖っていない。

 『女神さま』が迎えてくださる筈がない。

 

 少年は『罪人つみびと』たる我が身を恥じ入り、脚で這って後ろに下がる。

 すると――目の前の御方は、後ろを見て言った。


「あれは、死んでいない……『シン』を斬らない限り、動き続ける」

「……え?」

 

 『塊』のことを、少年は思い出す。

 空から降りて来た御方に心を奪われ、すっかり忘れていた。

 その御方はなびく白いかみを両手で押さえ、首の近くで一つに纏め、呟く。

「我がころもに染み付いた『匂い』のせいだ。迂闊だった」


 少年は、その言葉を速やかに理解する。

 やはり、あのニオイはこの御方のものだった。

 納得したが……『塊』が死んでいない、とは?

 『シン』とは――?


 

 戸惑う少年の横を、生き残った者たちがぎる。

 ある者は這いずり、ある者は中腰で走り、小さな悲鳴を上げながら――



「……みんなは、どこに逃げるのかな?」

 逃げる住民たちを見つめる碧い瞳は――優しくも険しい。


「……ねちぇ…る……とこ…ろ…かも……」

 少年は精一杯答えるが、うまく喋ることが出来ない。

 それに、喉が渇ききっている。

 だが、唯一の食事が摂れる場所――泉には『塊』が居座っている。

 『塊』が居なければ、水を飲めるが……

 

 

 

「君は。どこで寝ている?」

 訊ねられ、少年は――腕を一本だけ伸ばし――先を示した。

「……くいのひた……おじいひゃん……おとうしゃん……いまはひとり……」

「……送って行こう。君の話を聞きたい」


 

 碧い瞳と、翼のようなかみを持つ御方は促す。

 けれど喉が渇き、奥がシューシューと鳴っている。

 

 目の御方はそれに気付き、ころもの下から丸い物を取り出した。

「これを舐めると良い。薬湯と蜜を固めたものだ」


 丸い物を少年の口元に差し出し――少年は、迷わず口を開けた。

 舌先に乗せ、それを転がす。

 それは黒い水と違い、とても口当たりが良く、すぐに喉の渇きが収まった。

 『ヤクトウトミツ』が何かは知らないが、生まれて初めての味だ。

 口の中に爽やかさが広がったが――すぐに溶けて消えた。

 けれど、口の中はすっきりとして、体も温かくなったように感じる。


 不思議な物を持っているこの御方は、やはり『女神さま』なのだろうか。

 でも、自分は罪を贖っていないから、それは有り得ない。

 だとしたら……


「てんししゃま…だ」

 少年は微笑んだ。

「天使しゃま……女神しゃまを守る……天使さま…だ……」


 『女神さま』には、十二人の天使が付き従っていると聞いた。

 『女神さま』と同じ碧い瞳と翼を持ったこの御方は、『天使さま』だと確信する。


 そして――少年は驚く。

 前より、はっきり発音できるのを自覚したから。

 腕を伸ばして頬に触れると――硬かった顔の皮膚に弾力がある。


 感激し、天使さまにすがり付く。

 『異形』となり、罪を贖うのは尊いことだ。

 そう信じてきたけれど――やはり、怖かった。

 硬くなっていく皮膚に恐怖を覚え、眠れぬ夜も過ごした。

 けれど、天使さまが助けてくださった。

 まだ、罪を償うには早いと仰っるのだろう。



「……あれは、しばらくは動けない。心配は要らない」

 天使さまは少年を抱き上げ、歩き出す。


「……君の名前を聞いてもいいかな?」

 そう問われ、少年は頷いた。

 天使さまに、隠すことなど何もない。


「ヒズル……お父さん、が……名付けてくれた……」

 少年は赤い瞳を輝かせ、天使さまの芳しい匂いに身を委ねた。

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