幽空のベスティアリ ―碧き瞳の智天使― 

mamalica

1章 人知らずの国

1話 異形たちの街

 赤と黒とが斑模様を描く空――

 歪んだ鋼の杭が生えた大地――

 ただれた風は瞳から光を奪う――

 舞い堕ちる腐臭は声をほふる――



 

 赤い荒地には、何百本もの鋼の杭が、縦や斜めに突き刺さっている。

 地に倒れた杭もある。

 

 赤い錆が浮き出たそれらの隙間を、住民たちは歩む。

 黒いひふの裾を引き摺りながら――当所あてどなく。

 背の高い物、低い者、そして地面を這う者――

 同じ場所を巡り、行っては戻り、停まり、また動き出す。

 理由もなく、目的もなく、ただ腕や足や腹で地面を掻く。


 

 街の外れには、濁った深い泉がある。

 水底からは、黒く熱く重い泡が噴き出ている。

 意識を持つ住民は、たまに思い出したように、その泉を訪れる。

 泉に顔を近づけ、舌先を伸ばし、黒き水を吸う。

 それを百回以上繰り返すと、やがて意識は消え、地を這うだけの『異形』となる。

 

 けれど、それは『天国の女神さま』が望んだこと。

 『異形』となり、百年の時を過ごせば罪は贖われ、『天国』への道は開かれる。

 『天使』に生まれ変わり、光あふれる国で過ごせる。

 しかし、この言い伝えを覚えている住民は――ただひとり。

 

 

 

 その少年は泉を見下ろす黒ずんだ岩に座り、小さな石板を膝で抱え、地平を見た。

 空と地の境界は判別できない。

 ただ、赤黒い壁だけが立ち塞がっているように見える。


 けれど――この空の上には『女神さま』がいらっしゃる。

 少年は膝を少し開き、石板の表面の傷を目で追う。

 

 ――女神さまは、空の上から我らを見守っておられる。

 ――百年の時を異形として過ごせば、天国にて不滅の幸福が与えられよう。


 石板の傷は、そうういう意味が込められていると聞いた。

 彫られている図形は『文字』と云う、意思を伝える手段だと聞いた。

 祖父の、その父の、その父の、その父が記したと聞いた。

 その人物が『異形』になる前に、子孫のために記したのだと。



「め……が…み…しゃま……」

 少年は、舌と顎を動かした。

 もう一回、泉の水を飲めば、『言葉』は失われるだろう。

 あと二回、泉の水を飲めば、『盲目』となるだろう。

 あと三回……


 

 ……怖い。

 ……すごく怖い。

 けれど、喉が渇いた。

 堪えるのは、難しい。


 少年は、丸まった背中にある六本の『腕』を伸ばした。

 折り畳まれていた腕には二つの関節があり、先端の爪は――ひび割れている。

 細く長い腕を動かして岩を降り、足を引き摺りつつ、泉に向かう。


 この渇きから、逃れたい。

 罪を贖い、『天国』に行こう。

 罪を償った自分を、『女神さま』は優しく迎えてくださるだろう。



 だが――ふと、手を止めた。

 変わったニオイがした。

 焼けるニオイではない。

 腐ったニオイでもない。

 今までに嗅いだことのないニオイだ。


 少年は顔の向きを変えた。

 後ろから吹きつける風が、そのニオイを運んでくる。

 

 初めて嗅ぐニオイなのに、すごく懐かしい。

 ずっと昔に、似たニオイに包まれていたような気がする。

 このニオイを――もっと嗅ぎたい。

 

 少年は、ニオイのする方向に足を運ぶ。

 力の入らない足を動かし、懸命に進む。

 

 


 すると――背後で異変が起きた。

 乾いた土が高く舞い上がり、熱い突風がはだを揺らし、ニオイを吹き消す。

 

 背後を見ると、泉の水が高く噴き上がっていた。

 粘る黒い水は渦を巻き、無数の飛沫が降り注ぐ。

 水を求めて集まった住民たちは、哀れな声を上げて逃走する。

 

 水は黒い『塊』と化し、泉の畔に這い上がった。

 住民の複数が踏まれ、呑み込まれる。

 『塊』は何事もなかった如く、うねりながら前進を始める。


 

 こっちに来る――。

 少年は『塊』を見つめ、後ずさりした。

 『塊』の高さと幅は、鋼の杭の半分ほどだ。

 しかし、逃げる住民たちより遥かに大きい。

 それが、じわじわと近付いて来る。


 見たこともない巨大な『塊』に、少年は震え上がった。

 あれは『異形』なのか――

 なぜ、住民を呑むのか――


 何も分らないが、ここに居てはいけない。

 

 向きを変えて逃げよう、と少年は思った。

 『塊』は、まっすぐ進んでいる。

 曲がれば、『塊』をやり過ごせるかも知れない――

 

 少年は横を向き、『塊』から遠ざかるべく、全力で走る。

 けれど『塊』は、それより速く移動する。

 逃げる住民たちを残さず屠らんが如く、幅幅も広がっていく。


 

 間に合わない――

 呑まれる――


 砂塵がはだを打ち、地を擦る音が迫り、少年は最期を悟った。

 罪を贖えずに死ぬ。

 『女神さま』のところに行けない。

 けれど――『お母さん』のところには行けるかも知れない。

 瞼を閉じ、口元までをはだで覆った。

 『お母さん』が遺してくれたはだに包まれて死のう――。



 だが、あの風が吹いた。

 良いニオイのする風が。

 少年は、思わずはだをめくった。

 近くで、何かが動く。

 その動きを目で追う。


 斜め前で、何かが浮いた。

 黒いころもをひるがえした何かが。

 それが何かは、よく分からない。


 けれど――瞳は、自分たちと同じ形をしているのが判った。

 ひるがえる黒いころもの隙間から見えた二つの瞳――

 それは碧い。

 

「……めがみ…しゃま……?」

 少年は呟いた。

 家にある『女神さま』の画と同じ色の瞳。

 その色を『碧』と、父は呼んだ。

 遠い昔の空と、同じ色なのだと。

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