4話 雨の終わり

 一階の広間に満ちる声は止まない。

 男たちは、ビールで乾杯を繰り返す。

 熱いスーフに浸したパンを食べ、干し葡萄の甘酸っぱさに舌鼓を打つ。

 

 

 だが――喧騒は、湯屋の裏手に居るバシュラールと老修道士には届かない。

 そこは、屋根付きの洗濯場だ。

 石を削った洗濯台が三つ並び、灰汁あくを入れた壺も置いてある。

 洗濯物に灰汁あくを染ませ、こすり洗いをして、水で流すのだ。


 松明の明かりの下、バシュラールは手際よく洗濯をする。

 老修道士は脇からそれを眺めつつ――掠れ気味の声で問いかける。


「君は……洗濯をするのだな」

「必要ですから」


「君は面白い。賭け事もする」

「成り行きです」


「巾着の銀貨は、二階で寝ていた客たちから少しずつ失敬したね?」

「ヒズルの衣類を入手するためです」


「衣類を盗めば良かったのでは?」

「……そういう手もありましたか」


 バシュラールは、ふと顔を上げる。

「『物を貨幣と交換する』のは知っていましたが、『衣類を盗む』のは思いつきませんでした」


 すると――老修道士は口に手を当て、忍び笑いをした。

「銀貨を盗んでも、衣類を盗む発想は無かったか……まだまだ学習が必要だね」

「……そのようです」


 バシュラールは口元を動かし、笑顔で応じた。

 しかし口調は淡泊なままで――洗濯物を絞りながら訊ねる。


「……質問をしてよろしいですか?」

「構わんよ」


「僕の対戦相手のサイコロの目を変化させたのは……貴方ですね?」

「軽い余興だよ。私が手出しせず、負けたら……どうするつもりだったのかな?」


「『5』と『6』の目を混ぜて出すつもりでした」

 バシュラールは、老修道士の前に髪を一本だけ突き出した。

 硬度を自在に変化させられる、糸状の細胞だ。

 伏せたコップの下に差し入れ、彩色された目を読み取り、サイコロを引っくり返すのは容易である。


「相手側がサイコロをすり替えたのは知っていましたから」

「君と、もっと話しておけば良かったよ……教えるべきことが在った」


 老修道士は、雨に霞む窓明かりを見る。

 この宿屋でガラスの嵌まっている窓は、一階の広間の一つのみだ。


「毎日、同じことの繰り返しだからね……彼らは気付いていないが」

「僕たちが召喚された日から……ずっと?」

「……三日後に、井戸の水が枯れたよ……」


 老修道士は、傍にあった木の丸椅子に腰を下ろす。

 松明の炎が、その鳶色とびいろの瞳に映る。


「空は焼けただれ、風は荒れ狂い、城も街も瓦礫と化した。川の水も干上がり、生き残った人々の多くは、水を求めて街を去った。街外れのこの宿も半壊し、残っていたみんなも疫病で……。私は彼らの魂を繋ぎ止め、彼らの体と宿を新しく造った。街の『シン』たる私に出来た精一杯の……愚策だった」


「彼らは、同じ生活を繰り返しているのですね? 同じ時間に同じ料理を食べ、酒を飲み、夕刻には馬車が来る」


「……あの時、死なせてやるべきだったかも知れん……」

 老修道士は、肩を震わせる。

「亭主夫妻も客も、呆然と焼けた空を眺めていたよ……突然の『滅び』を信じたくなかったのだ……」


「……あなたも」

 バシュラールは、搾り終えた洗濯物の四隅を伸ばす。

 老修道士は、糸が切れたように頷く。


「私は『痕跡』を遺したかった……。間違っていたと思うかね…?」

「……判断いたしかねます」




「……あの子の持つ『魔導書ベスティアリ』……『アルガの街のテオドラ』のものだね」

 短い沈黙の後――老修道士は、右の手のひらを上に向けた。

 熱にうなされるヒズルの額に触れた手だ。

「アルガは、鋼の産地として栄えていたよ。それが……あの有り様だ。『テオドラ』も苦しんだだろう。住人が、人にあらざる姿に変化していくのを止めらず……」


 バシュラールは、無言で老修道士を眺めた――底知れぬ虚無を宿した碧いで。

 その沈黙を返答と受け取った老修道士は立ち上がり、濡れている洗濯物に触れた。

 たちまちそれは渇き、生温い湿った風に揺れる。


「かつての、この街の名は『イドゥン』。私は『ロセッティ』だ。私も、自分で終止符を討とう……」

「そうしていただけると……手間が省けます」


 バシュラールの髪の裾が、スッと鋭く逆立った。

 それは鋭い刃を持つ太刀タチに変化し、『ロセッティ』の前に差し出される。

 太刀タチを手にした『ロセッティ』は眉をひそめ、『アンクウの眷者』を眺める。

 膝下に達していた白い髪が、腰の下まで短くなっている。


「君の髪が短くなったな……身を削って、武器を生成するのか」

「三日で、元に戻ります」


「ならば……心配は不要か……」

 『ロセッティ』は夜空から注ぐ水滴を見上げ、呟いた。

「……ヒズルくんを……どうするつもりかね?」


「……考えていません」

 バシュラールは坦々と答える。

「『テオドラ』に託されただけですから」


「やはり、君は面白い」

 『ロセッティ』は太刀タチを腰紐に挟み、腰を屈伸して見せた。

「……君たちが立ち去ったら、始末を付ける。幸運を祈るよ……」


「……ありがとうございます」

 バシュラールは乾いた洗濯物を畳み、宿を眺めた。

 宿の広間の明かりが、少し暗くなった。

 スープもパンも切れたのだろうか。

 酔い潰れた客たちは、明日のために眠る。

 亭主夫妻も女中も、明日が来ると信じて眠る。

 

 終わらない一日は、もうじき閉じる。

 明かりは、二度と灯らない。

 そして、雨は止む。

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