5話 月の里亭、そしてロセッティ

 花の香りが、瞼を揺する。

 少し瞼を上げると――緑と白と黄色が溢れていた。

 その上には、青い空と筋状の白い雲。


 肌に纏わる風は、さやかに涼しい。

 目の前で、昆虫が動いた。

 紫色の四枚の羽を持ち、風に揺れる白い花に止まっている。

 蜜を吸っているのだろう。


 

「……テオドラ……」

 ヒズルは呟き、右腕を動かした。

 濃い碧色の表紙の『魔導書ベスティアリ』がその下に在る。

 これを託されてから、七日目の夜に変化が現れた。

 背に在る六本の腕が動かせなくなった。

 爪が割れ、腕の周囲が痛み始め、足の力も消えた。


 バシュラールに背負われ、旅を続けたが――体温も上昇した。

 意識も朦朧とし、ふと気が付いたら――寝台らしき物の上に居た。

 周囲は薄暗く、絶えず壁を打つような音が響いていた。

 

 茶色の衣服を着た見知らぬ人がこちらを見て――額に触れた。

 その人の眼差しは、どこか『テオドラ』に似ていた。

 すごく優しそうで、悲しそうで……


 その後のことは、覚えていない。

 けれど、自身の思考の変化に気付いた。

 基本的な言語・文字・数字。色彩・動物・植物……

 いつの間にか、それらの知識が脳裏に浮かぶ。

 目の前の昆虫は蝶々で、白い花の蜜を吸って養分としていると――理解した。

 

 それらは、『テオドラ』の記憶だった。

 彼女が蓄積した記憶の一部が、『魔導書ベスティアリ』を通して付与されたのだ。

 

 変化は、肉体にも及んだ。

 背中の腕は消え、バシュラールのような長い手足がある。

 顔の形も変わった。

 頭部に触れると、黒い布のようだったはだは――糸のようにほぐれた。

 長さは、腰よりも少し短い。

 手のひらに取ると、色は黒いままだ。

 『お母さん』のはだの色は失われず――それが嬉しい。



「バシュラール……」

 肌を撫でつつ、ヒズルは呼んだ。

 大樹の根元に居るが――彼の姿は無い。

 彼のマントを被せられているから、また戻って来るだろう。

 傍の袋を探ると、パンの塊が入っている。

 水を入れた革袋もあるが、革袋は二つあった。

 その一つが無いということは、水を汲みに行ったのかも知れない。


 


 すると――大樹の真後ろで影が動いた。

 肉食動物はごく少数だから、草食動物か鳥類だろうか――


 ヒズルは上半身を起こし、影の正体を確かめようとした。

 『魔導書ベスティアリ』を両手で持ち、膝立ちして大樹に沿って進む。

 すると――それは姿を現した。

 それを見たヒズルは、驚く。


 

 それは、『女神さま』や『テオドラ』の外見を思い起こさせる姿――

 いわゆる『女性』だ。

 バシュラール同様、足元に達する真っ直ぐ伸びた白い髪。

 足先までを覆う白いドレス。

 その上に羽織る白いマント。

 瞳は薄い翠色――。



「……あ……あの……こんにちは……」

 ヒズルは、ただ戸惑い――月並みな挨拶をし、頭を下げる。

 しかし、女性は無言である。

 こちらを観察する如く、瞬きもせずに見下ろすのみだ。

 両手は下に下ろし、無防備に立っている。


「あの……僕の名前は、ヒズルです……」

 気まずい雰囲気を断つべく、また話しかけると――彼女は応えた。


「……私は『イセルテ』だ」

「……イセルテ……さん?」

「……心配はいらぬ。私は、そなたらの敵では無い」


 彼女は淀みない声で言い、瞼を閉じ――すると、長い髪はフワリと逆立つ。

 その姿は、風に溶けるように掻き消えた。

 彼女の居た場所は、草と花が揺れているだけである。



 ヒズルは、急いで『魔導書ベスティアリ』を捲った。

 空白だったページに、彼女イセルテの姿が描かれている。

 自分が見たままの、彼女の立ち姿。

 絵の下には、彼女の名も記されている。


 

 だが――もう一つ気になることがある。

 ヒズルは、前のページに戻る。

 そこには、二つの絵も追加されていた。

 茶色のクローク姿の男性と、建物だ。

 男性の顔は、フードで隠れて見えない。

 建物は、大きな家のようだ。

 夜の光景で、雨が降っており、家は黒く塗り潰されている。

 二つの絵の横の余白には、何も記されていない。


 

 だが、分かる。

 自分は、この家の中に居た。

 このフードの男性に、世話になった。

 けれど、もう――この家は無い。

 『バシュラール』が消した……


 ヒズルは肩を大きく震わせ、空を見る。

 『バシュラール』の目的は分からない。

 彼は、街の『シン』を壊す。

 『シン』が壊れた街は消える。

 『シン』の庇護下にある人も。


 そして、自分は『バシュラール』の庇護下にある……。

 それは、『テオドラ』の遺志だ。

 彼女は、自分に生きろと命じた。

 世界の記憶を記すために。


 だから……生きる。




 ――気配を感じ、振り向いた。

 ――バシュラールが、向こうから近付いて来る。

 

 ヒズルは立ち上がり、片手を上げ、振った。

 バシュラールに話を聞こう。

 雨の中の家とフードの男性の絵の――周りの余白を埋めるために。




 † 次章に続く †

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