3章 死者
1話 見知らぬ少女
川の水は、澄んでいる。
飛沫と共に魚が跳ね、光の粒が舞う。
風が運ぶ花の香りは、涼やかに過ぎる。
空の碧は軽やかに碧く、白い薄雲の下を鳥たちが舞う。
「冷たい……」
ヒズルは緩い流れに膝まで浸かり、体を洗う。
腰近くに達していた髪は少し切り、項の所で結わえている。
『お母さん』から受け継いだ黒い髪。
それはさらさらで、汗を掻いても余り汚れず、
触れると、『お母さん』に抱かれている気がする。
けれど、この体の肌は衝撃に弱い。
ぶつけると痛く、青く変色する。
引っ掻くと、血が出る。
虫に刺されると、赤く腫れる。
けれど、草原が続く世界は穏やかで、命を脅かす敵も出ない。
赤と黒とで覆われていた故郷とは大違いだ。
焼け爛れた風と腐臭が、遠い過去に思える。
あの世界に戻りたいか、と問われれば「否」と即答するだろう。
それでも………
ヒズルは足元に沈んでいる『
空気に触れたそれは、たちまち乾き、インクの匂いを漂わせる。
表紙を捲り、故郷の絵を眺める。
ヒズルの家の、八つ並んだ石の寝床――。
それを見ると、瞳が濡れる。
――おじいちゃん
――お父さん
――お母さん
――奥の壁に彫られていた『女神さま』
故郷は、もう無い。
けれど、その記憶は『
大人になったら、故郷のあった場所に戻りたい――と願う。
この『
家族、住人たち、そして『テオドラ』に。
振り向くと、バシュラールの後ろ姿が小さく見える。
木陰に座り、『露玉』を作っているのだ。
香草、蜜を朝露で溶き、小鍋で煮詰める。
舐めると、丸一日は飲食をせずに済む。
けれど、それだけでは体に良くない、とバシュラールは言う。
固形物を摂らなければ、体を維持できないと。
だから川沿いを歩き、魚を釣り、自生の木の実を見つけたら拾う。
十頭余りの鹿の群れに遭遇したこともある。
動物が食料になることは、バシュラールから教わっていた。
が、ヒズルはその群れの――親子を見て固まった。
子鹿に寄り添う母鹿の姿は、自分と『お母さん』を思い出させる。
バシュラールも足を止め、二人で群れが去るのを見守った。
ヒズルは、胸を撫で下ろす。
動物の肉を、いつか口にしなければならない時が来るかも知れない。
けれど、今は無理だ――。
ヒズルは川から上がり、『
そして衣類を身に付ける。
リネンの肌着とシャツ、染めていない羊毛の
少し大きいが、着心地は悪くない。
故郷が消えてから、十五日目。
背中の六本の腕はひび割れて落ち、バシュラールと同じ外見になった。
二本の足で歩き、二本の腕で『
手で食物を口に入れ、夜は仰向けになって星を眺めながら眠る。
星空を描いた絵も、『
ただ――気になることがある。
『
七日前に出会った『イセルテ』は記されたのに――。
同じ白い長い髪のバシュラールが記されないのは、おかしい――。
「……こんにちは。今日も、良いお天気ね」
いきなり呼び掛けられ、驚いたヒズルの背が反り返る。
『女性』の声だ。
『テオドラ』とも『イセルテ』とも違う声である。
何となく――彼女たちよりも、若い声に思える。
ヒズルは、肩越しに声の主を見た。
五歩後ろに、『女性』が立っていた。
背丈は、自分と『イセルテ』の中間ぐらいだろうか。
彼女も、白い長い髪の持ち主である。
その髪は、額の中央で綺麗に二つに分けられ、頭の両端で結んでいる。
額に前髪が掛かっていないので、顔の形もはっきり分かる。
『イセルテ』よりも、若いことは間違いない。
目は大きく、『イセルテ』同様に薄い翠色だ。
だが、無表情だった『イセルテ』と違い、笑顔である。
ヒズルは――なぜか、胸が熱くなったような気がした。
戸惑いながらも、体をそちらに向ける。
彼女のドレスは、『イセルテ』や『女神さま』の裾の長いドレスとは違っていた。
裾は膝の辺りでカットされ、フワリと広がっている。
柔らかそうなブーツは膝より長く、だから素足は見えない。
ショートジャーキンには大きな衿が付いていて、合わせ目は四つのボタンで飾られている。
膨らんだ袖は肘までの長さで、ショートグローブを嵌めている。
目を凝らすと、ショートジャーキンとドレスは、ごく薄い紫色だと分かった。
グローブとブーツは、髪と同じ白だが――。
「……こんにちは……」
ヒズルは『
髪の特徴から、彼女が『バシュラール』や『イセルテ』と同種であるのは分かる。
『アンクウの眷者』と呼ばれ、『
「あの……バシュラールに御用ですか……?」
「あなたに」
彼女は即答した。
「あたしは、マリーレイン。今夜、あなたと一緒にお留守番するの」
ヒズルは、大きく瞬きをする。
『マリーレイン』の耳飾りの白い宝玉が、きらりと輝いた。
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