5話 心淵

 そこは――少し開けた平地だった。

 中央には大樹があり、傍の盛り土の上に三角屋根のヤギ小屋がある。

 屋根の天頂はエオルダンの背丈よりも高く、人間四人が寝ても余裕がある広さだ。

 だが扉は無く、ヤギたちが自由に出入り出来る造りになっている。

 餌は、そこらに自生している草なのだろう。


「今は父ヤギと母ヤギ、仔ヤギが二頭住んでいる。仔ヤギは二十日前に産まれた」

 エオルダンは手桶を小屋の横に置き、中を覗き込む。

 ヒズルも後ろから首を伸ばすと――父ヤギは小屋の隅で横たわり、母ヤギは仔ヤギ二頭と一緒に座っていた。

 四頭とも体毛は真っ白で、人に慣れているらしく二人を見ても動じない。

 敷き詰められたワラの上から、じっとこちらを見ているだけだ。


「放し飼いにしてるんですか?」

 ヒズルは母子の様子に目を細めた。

 エオルダンは母ヤギの乳の張り具合を見定めてから、ヒズルを手招きする。

「ここには狼がいるが、近寄らないように『界』を張っている。傍の大樹の葉の香りは、虫よけ効果がある。乳しぼりの前に、お昼ごはん食べよう」


 エオルダンは、小屋の傍の切り株の椅子を差した。

 三台の椅子が三角形を描いて並んでいる。

 以前に複数の人間が座ったのかも知れない、とヒズルは想像した。


 

 エオルダンが用意したお昼ごはんは、パンとチーズと木苺のジャム。

 そしてコップに注いだ林檎の搾り汁。

 コップには蓋が被せられ、零れないように工夫されていた。

 エオルダンはパンを四つにスライスし、そのうちの二枚にはチーズを乗せ、あとの二枚にはジャムを塗る。

 チーズの上には蜂蜜を塗り、砕いた木の実を振りかけた。

「こうすると、チーズ独特の臭みがやわらぐ」


 ――パンを渡されたヒズルは、白っぽいチーズの臭いを嗅いだ。

 何とも言い難い腐臭が鼻を刺激し、「ウェッ」とばかりに顔を逸らす。

 これで臭いがやわらいだとは思えないが……


「食べてごらん。栄養がある」

「……はい……」

 勧められ、ためらいながらパンの角をかじりつつ――チーズに舌先で触れる。

 酸味と塩味と臭いが口の中に広がり、ヒズルは高速で舌を引っ込めた。


「そうじゃない。こうして一気に食べる。蜂蜜と木の実ごと」

 エオルダンはパンの角をザックリとかじって見せる

 

 ヒズルは眉を斜に構え、林檎の搾り汁をひと口含んでから、思い切ってパンにかぶりついた。

 口の中に入ったパンとチーズは――思いの他、美味だった。

 噛んだ直後は臭いが鼻に充満したが、すぐに蜂蜜が臭いと塩味を打ち消す。

 続いて木の実が、まろやかさを加味する。


「……おいしい!」

 ヒズルは、本心から述べた。

 臭いチーズも、蜂蜜と合わせると無理なく食べられる。

 早々にひと口目を喉に流し込み、二口目をかじる。

 

「貴族や王族は、このチーズとワインを合わせて楽しんだのだよ」

 エオルダンの言葉に、ヒズルは足元に置いた『魔導書ベスティアリ』に視線を注いだ。

 貴族に王族――「国や都市の支配者階級のこと」だと『魔導書ベスティアリ』は語る。


 ヒズルは、ふと空を見上げた。

 大樹の枝が揺れる遥か上の空は、のどかに青い。

 バシュラールの瞳にも似た青で、とても美しい。

 

 これは本物の空なのだろうか――

 足元の草の緑、小屋の壁の木目、ヤギたちの白。

 全ては『本物』に見える。

 匂いも踏みしめる草の感触も、幻ではない。


 ヒズルは最後のひと口を食べ終え、エオルダンに訊ねる。

「……あの水、飲めますか?」


 指した先には、石を組み合わせた横長の水飲み場がある。

 石台の横にあるパイプの先端からは、常に水が流れ出ていた。


「ああ。ヤギたちの水飲み場だが、洗い物にも使っている。だが、搾りたての乳を飲ませてあげるから、飲み過ぎないように」

「じゃあ……止めます。コップだけ洗います」


 ヒズルは『魔導書ベスティアリ』を抱えて水飲み場に駆け寄り、陶器のコップを流れ出る水で洗う。

 林檎のかすが混じった水は、台底の排水口に吸い込まれて消える。

 

 

 ――ヤギ小屋から鳴き声が聞こえ、エオルダンが立ち上がる気配がした。

 彼はヒズルの横に来て、同じようにコップを洗い流す。

 ヒズルは、台の端に置いた『魔導書ベスティアリ』を眺めた。

 少し濡れた表紙は……テオドラの濡れた瞳を思い出させる――。

 

 



「あの……あなたは『シン』なのだと聞きました……」

 彼を見上げ、覚悟を決めて問う。

「『シン』て……何なんですか?」


「……死神どもは、『我ら』をそう呼んでいるが……」

 エオルダンはコップを台の縁に置き、目を伏せる

「街と住民たちの命を司る『霊位体』……古くは『エクス』と呼ばれた存在だ」


「『霊位体エクス』……?」

 訊き返すと――エオルダンの眉間には深い皺が寄った。


「ずっと昔のことだ……。街や都市の支配者たちは土地と財を求め、争いを始めた。そうした時代に生み出されたのが『霊位体エクス』だ。その土地の精霊に明確な人格を与え、住人たちと街を守る存在に造り変えた……」

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