6話 巫術師(ナギ)

 ……ヒズルの視界が暗転した。

 漆黒が目を覆い、足の下の――地面の感触が消える。

 

「……うわっ!」

 驚き、すがるように声を上げる。

 隣に立っていたエオルダンの姿も掻き消えた。

 思わず『魔導書ベスティアリ』に手を伸ばしたが、それは空振りに終わる。

 周囲の物体すべてが消失し、漆黒の中を浮いている。

 暑さも寒さも感じず――草の匂いも、風の音も消えた無位無音の世界だ。

 

 けれど、危険は感じない……

 

 


「そなたに『名』を与えよう……」

 体の内側から――男性の声が響く。

 少し掠れているが、優しそうで……記憶の中の『おじいちゃん』の声を思わせた。


「『アルガ』の『霊位体エクス』たる其方そなたの『名』は『テオドラ』だ。そなたに、街と住民たちの命運を託す……」


 話に驚き、思わず瞬きすると――漆黒がついえた。

 目の前には、豊かな色彩が広がっている。

 

 澄んだ水を湛えた泉のほとりに、人が立っている。

 後ろ姿の男性と思しき人と、彼と向き合う女性だ。


 男性は漆黒のクロークで全身を包み、白髪交じりの長髪を一つに結んでいる。

 その向かいに立つ若い女性は、輝くような美貌の持ち主だ。

 

 緩やかな巻き毛は鮮やかなオレンジ色で、地に達するほどに長い。

 瞳は碧く、野ばらを思わせる唇には柔らかな笑みが浮かんでいる。

 胸の開いたドレスは少し暗めの真紅だ。

 ボディスは体にフィットしているが、スカートは大きく広がっている。

 袖幅も広く、先端は床に着くほどに長く、白いアンダースリープが見える。



「……テオドラ……!」

 ヒズルは察した。

 街を離れる時に見た哀切に満ちた『テオドラ』の面影は無い。

 瞳は輝き、咲き誇る大輪の花のように美しい――。



「造られた直後の彼女だよ……」

 エオルダンの声は、美しい幻像を元の場所に押し戻す。


 浮遊感は消え、瞬きをすると――水飲み場の石台の底に手を付いて立っていた。

 『魔導書ベスティアリ』も流れる水に浸っており、ヒズルは慌てて持ち上げる。

 『魔導書ベスティアリ』はたちまち乾き、何事も無かったようにヒズルの両手に収まる。

 

 開くと……空白だったページに、テオドラの立ち姿が記されていた。

 それは美麗な筆致で描かれ、ヒズルは目を見張る。

 オレンジ色の揺蕩たゆたう髪、優美なドレス、足元を彩る白い百合の花。

 まるで『花の女神』のようだ。


 

 だが――覗き込んだエオルダンは、淡々と語る。

「彼女は大地の精霊だった。だが、あの日……『アルガ』の街は直撃に等しい攻撃を受けた。炎は巨大な柱と化して空を焦がし、溶けた鉄は濁流と化し……地を覆った」


「……攻撃って……」

 ヒズルは戦慄し、『魔導書ベスティアリ』を抱き締める。

 

 赤と黒が渦巻く空。

 焦げた風が吹き、土は絶えず腐臭を振り撒く。

 人の姿を失った住民たちは、救いを求めて這いずり回っていた……。



「『テオドラ』は、住民を守ろうと力を尽くしたのだろう。だが……燃けた大地は、彼女の姿を変えた……」

「いいえ!」


 ヒズルは、エオルダンの言葉に立ち向かう。

「『テオドラ』は、とても綺麗でした! 優しくて……僕が生きていれば、街は滅びたことにならないと言いました!」

 

 テオドラは美しい――それは、ヒズルの本心だった。

 黒い髪に、黒泥のようなドレスを纏い、黒い泉と一体化したような姿――。

 だが、彼女の心は微塵も汚れていなかった。

 住民たちと運命を共にし――彼らの魂を抱いて天に召された。

 

 あの時を思い――熱い涙が溢れる。

 街は――バシュラールの太刀タチによって、存在を断たれた。

 だが、それを恨んではいない。

 街は、終焉に向かっていた。

 街の女性は既に絶え、いずれ全てが沈黙する運命だった。

 バシュラールは、それを少し早め――テオドラは、自分と『魔導書ベスティアリ』に希望を託したのだ。




「そう……彼女は美しく勇敢だった……」

 エオルダンは、ヒズルに背を向ける。

 吹き抜けた風が、彼の髪を跳ね上げる。

「多くの街や都市が攻撃を受けた。『霊位体エクス』たちは、各々おのおのの能力を駆使して住民たちを守ろうと努めた……」


「……あなたも…?」


「……私が守っていた街は『フィルケ』と云う。私は各地で戦いが始まったと知り、すぐに街を守る『界』を張った。私は、大気の精霊だった。それ故か、街を移動させることが出来た。大気の動きを読み、戦いの無い地域に街を転移させ続けた……」


「……街の人は……どうなったんですか?」

 ヒズルは、周りを見回した。

 木々は緑豊かにそびえ、ヤギたちはノンビリと寝ている。

 水は絶え間なく石台を満たし……けれど、ここで生きている人間は自分だけだ。



「東方に『巫術師ナギ』と呼ばれる魔導師たちがいた……。奴らは、禁忌の術であった『巫召術ナギツメ』を使った。その術で召喚されたのが……後に『死神アンクウ』と呼ばれる異界の霊獣たちだ。私は、我が身と引き替えに『フィルケ』の住人を『死神アンクウ』に差し出したのだ……」


 エオルダンは語り、濡れた手で乱れた髪を押さえた。

 仔ヤギの鳴き声が、大気を揺らす。

「乳しぼりをしよう……新鮮な乳を飲むのは初めてだろう?」


 エオルダンは気だるげに微笑んだ。

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