7話 在りし日

 ヤギの乳しぼりを見るのは初めてだ。

 ヒズルは床に敷いたわらの上に『魔導書ベスティアリ』を置き、膝を付いて覗き込む。

 乳しぼりをする者は、柱に繋がれた母ヤギの後ろの椅子に座り、乳房を押し撫で、乳頭を指先で摘まむ。

 すると、真っ白い乳が木桶に滑り落ちる。

 

「このヤギは乳の出が良い。木桶一つ半ぐらい出る」

 エオルダンは、コップを母ヤギの乳房の下に当てた。

 ほんのり温かい乳は、たちまちコップを満たす。

「ほら、飲んでごらん。清潔だから、すぐ飲める」


「はい…!」

 ヒズルは、コップを受け取った。

 コップの中で微かに揺れる生乳は、チーズと違って臭みは無い

 フーッと生乳をひと吹きし、口に含むと――まず、香草の香りが鼻を抜けた。

 次に、微かな甘みが口いっぱいに広がる。

 濃厚だが、思っていたよりも飲みやすい。

 

 

「ヤギの乳は、人間の乳に近い。人間の赤子にも飲ませられる」

「人間の……」


 ヒズルはコップに残った生乳を見た。

 母ヤギの手前で遊んでいる仔ヤギたちも。

 

 生まれた『アルガの街』の赤子は、お母さんのはだを受け継ぐ。

 はだには、赤子に必要な栄養が含まれていると聞いた。

 それを糧に自分は育ち、こうして生きている。



「もう一杯、飲むかい?」

 エオルダンは微笑み、ヒズルはカラのコップを差し出した。

 再び、コップは白い乳で満たされる。


「君を、この森で育てたいが……」

 エオルダンは、ヒズルにコップを渡してひと息ついた。

「ここで暮らすのは……君の運命じゃない」


「……はい……」

 ヒズルは、母ヤギの足元に置いている『魔導書ベスティアリ』を見やる。

 自分の命は、テオドラから託された『希望』だ。

 世界をめぐり、『魔導書ベスティアリ』の空白を埋めねばならない。

 世界に起きた事、起きていることを記録しなければならない。

 



「……あなたは……何をしたんですか?」

 ヒズルはコップの中の生乳を眺めつつ……問う。

 彼が起こした災い――

 それを『魔導書ベスティアリ』に記すのは自分の使命だ。

 記すためには、彼の『罪』を知らねばならない。

 

 

 

「君は、賢い子だ。テオドラが、君に希望を託したのも頷ける」

 エオルダンも、ヒズルの覚悟を察した。

 乳しぼりを終え、布で母ヤギの乳頭を拭う。

 母ヤギの足を固定していたロープを解くと、母子たちは外に出て行った。

 父ヤギも後を追うように、小屋を出る。

 エオルダンは生乳で満たされた手桶に布を掛け――語り出した。



「かつて……この『西の大陸』の複数の国が、『東の大陸』に攻め込んだ。強力な魔術を使う『魔導師』率いる大軍は、東の国々を滅ぼし……追い詰められた東の果ての国の『巫術師ナギ』たちは……異界の霊獣が召喚した。霊獣たちは『西の大陸』の都市を襲った。奴らのひと睨みで地は裂け、熱波が街を焼いた…」


「……僕の生まれた街も、襲われたんですね……?」


「……『アルガ』は、鉄を王都に献上していたのがあだになったようだ……」


「……そんな……」

 ヒズルはコップを『魔導書ベスティアリ』の脇に置き……項垂れる。

 そのせいで、アルガの街の住民たちは、人の姿を失った。

 おじいちゃんも、お父さんも、お母さんも……その姿を受け継いだ。

 過去の戦いなんて知らなかったのに――。

 

 けれど……『異形となって罪を贖う』と云う奇妙な言い伝えは、昔の戦いと無関係では無いのかも知れない、と思う。

 襲撃を生き延びた祖先の誰かの言葉が、伝わったのかも知れない――。

 

 だが、納得できないことがある。

 ヒズルは、『魔導書ベスティアリ』を手に取って訊ねる。

「戦いは、ずっと昔なのに……バシュラールたちは、今も街を壊してる……?」


「ああ……『フィルケ』の街は、戦争とは無関係な国に所属していた……」

 エオルダンは乳しぼり用の椅子に掛け、過去を語る。

「戦争から百日が過ぎた頃……霊獣が現れた。それは、女の姿に変化へんげしていた。碧い瞳の濃紺のドレス姿の『死神アンクウ』は、私に囁いた……」





 ――ずいぶん、逃げ回っていたようだね。


 ――なぜ震えている? 人間に造られた其方そなたが、人間以上に怯えているとは。


 ――消えたくないか? この街の住民を放棄すれば、其方そなたは死なずに済む。


 ――結果は同じだ。住民と共に死ぬか、住民だけが死ぬか。


 ――住民が死ぬ結果は変わらぬ。全ては、この星のためなのだ。


 ――うまく行けば、人間を絶滅させずに済むだろう。迷うことは無い……





「私は決断した……。『霊位体わたし』と住民を繋ぐ『結び目サウィン』を解いた。そして、四千人の住民を置き去りにして街を転移させた……死ぬのが怖かったのだ……」


 エオルダンの独白に、ヒズルの血が音を立てて下がる。

 温かい乳が喉を通って間も無いのに、激しい渇きに襲われる。

 

 『エクス』に遺棄された人間が死ぬことは……理解している。

 自分が生きていられるのは、テオドラに授けられた『魔導書ベスティアリ』の力ゆえなのだ。

 しかし……疑問が渦巻く。


「その女性が言った『人間を絶滅させずに済む』って、どういう意味ですか?」

 

 ヒズルの問いに、エオルダンは即答した。

「『死神アンクウ』どもの存在は、この世界の調和を崩す。それを防ぐには、『死神アンクウ』どもを元の世界に返すしか方法は無い。奴らを召喚した種族の命をもって、異界への扉を開く必要がある……だから『死神アンクウ』は人間を抹殺する……世界の存続のために」

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