8話 いつか、誰かが
「う~ん、やっぱお風呂最高!」
湯屋から出て来たマリーレインは、すこぶる上機嫌だ。
ゆったりした白いガウンに、リボン付きの
貴族令嬢の夜着を思わせる装いである。
髪は、古風にツーテール三つ編みにして垂らしている。
「あーれえ~? 何してるの?」
開いたドアから中を覗き込み、食卓で作業しているバシュラールに声掛けする。
「ソバ打ちだ。夕食に提供する」
バシュラールは彼女を見ず、練ったソバの塊を木の棒で平たく伸ばしている。
「東の大陸での食べ方だ。練ったソバを紐状に切り、蒸して塩を振って食べる」
「……イセルテに教わったの?」
「そうだ」
「……あの子は、エオルダンに任せたら?」
――マリーレインの表情が失せた。
天真爛漫さは一瞬で沈み、冷たい思惟が発せられる。
(あたしが此処に残る。魔導師どもが来たら殺す)
(承認しない。ヒズルに人殺しを見せるな)
(『
(テオドラとロセッティは渡した
(今後も上手くいくとは限らない。
「……あの子は此処には残らない。連れて行く」
バシュラールは肉切り用のナイフを取り、練って畳んだソバを切り始める。
「暇ならワサビを採取してくれ。東の泉の畔に自生している」
「はーい、
マリーレインは舌先を出し、ローブを瞬時にいつものドレス形態に戻す。
「せっかくお風呂に入ったのに、ワサビ採りぃ~♪
すると――歩いて来るヒズルとエオルダンが目に入った。
マリーレインは開いていたドアから走り出る。
「お帰り~♪ ヤギさんのミルクは採れた?」
「うん……明日、発つ前にチーズもくれるって」
ヒズルは笑顔で、手桶を差し出した。
手桶の半分より少なめに白い乳が満たされているのが、粗目の布越しにも分かる。
「そっか~。お姉さんは、川にワサビ採りに行って来るから。お風呂に入ってね」
「お風呂……?」
「熱いお湯を、湯桶の中に入れて浸かるの。お湯は沸かしてあるから」
マリーレインは手桶を受け取り、湯屋を指した。
四本の柱の上に屋根を付けた湯屋があり、脇の
「私のシャツを貸そう。いま着ている物は、私が洗って置く」
エオルダンはマリーレインから手桶を受け取り、優しく語る。
「君は大切なお客だ。あとは、朝まで
「はい……」
ヒズルは何やら切っているバシュラールに目配せすると、バシュラールは頷いた。
「これを切り終えたら、入浴を手伝う。それまで、犬と遊んでいてくれ」
「……うん……分かった」
ヒズルは振り向いた。
二匹のダルメシアンが、尻尾を振って待っている。
ヒズルには、ひとりでの入浴は少しばかり困難である。
鉄鍋で沸かした湯を手桶で組み、人が座って入れる大きさの湯桶に満たすのだ。
子供には少し危険で、きつい仕事である。
ゆえに、バシュラールが鉄鍋と湯桶の間を何度も往復して、湯桶を湯で満たした。
犬と戯れつつ、その様子をヒズルは観察していた。
バシュラールなら、もっと簡単に湯を移動させられるのでは――と思ったが、それは口にしない
彼は、あえて面倒な作業を見せてくれる。
自分に学習させるために。
「さあ、服を脱いで。湯の温度も、ちょうど良いと思う」
バシュラールは手桶を置き、ヒズルの衣類を脱がせた。
そして手桶で湯をすくい、ヒズルに何度か掛け湯をする。
終わるとヒズルを抱き上げ、湯桶の中に立たせる。
湯桶の高さは、ヒズルが跨ぐには少し高いのだ。
「あったかい……」
ヒズルは『
湯には香草の束が浮かんでおり、疲れを癒してくれる。
川での水浴びは爽快だが、それよりも遥かに心地良い。
「桶の縁にもたれて。髪を洗おう」
バシュラールは手桶の湯でヒズルの髪を濡らし、指の腹で地肌を擦り、何度も洗い流す。
彼は着衣のままだが、湯が跳ねても濡れない。
『
「変な感じ……」
ヒズルは香草を手に取る。
「こうやってお世話して貰うのって……物語の王子様みたいだって思った」
「マリーレインから聴いた物語か?」
「うん……でも、僕は王子様より騎士が好きだよ。馬に乗って、槍を構えて……」
――そこで、ヒズルは口を閉じた。
そして、周囲を見た。
犬たちが駆け回り、家の壁で猫たちが爪とぎをしている。
日射しは緩やかで、優しい。
けれど――ここは長く過ごす場所じゃない。
〖テオドラ』の望みは、自分が『
そのために、旅は続けなければならない。
世界の姿を、記さなければならない。
いつか、誰かがそれを読むだろうから。
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