9話 月の静寂(しじま)

 西の彼方に太陽が沈んだ。

 けれど、空はまだ薄暗い。

 窓から外を覗くと、木々の間を走り抜ける影が見える。

 きっと、鹿の群れだろう――。


 

 夕食には、バシュラールが作った『ソバ』が出た。

 ソバ粉を練って紐状に切って蒸し、岩塩とワサビを添えて食べる。

 『ハシ』と云う二本の棒で掴んで食べるのだが、それもバシュラールが作った。

 ヒズルは悪戦苦闘しつつ、どうにか『ソバ』を『ハシ』絡めて口に入れた。

 シンプルだが香ばしさが引き立ち、これはこれで美味しい。

 ワサビは、ちょっとだけ『ソバ』に乗せて食べたけれど、少し苦手だ。

「たくさん口に入れると、咳が出て大変なことになる」らしい。


 他には、茹でた卵・ベーコンと根菜のスープ・ブルーベリーパイがあった。

 魚とキノコと木の実以外の食事を摂る機会が少ないヒズルは、それらを大喜びで平らげたのだった。


 そして、夜は二階のベッドを借りた。

 屋根裏に当たる二階は天井も低く、ベッドと編かごが二つあるだけだ。

 編かごは、衣類や織物が入れてあるらしい。


 エオルダンから借りたシャツの丈は、ヒズルの膝下まで届く。

 寝間着には、ちょうど良い。

 『女神さま』と『テオドラ』と『故郷』に祈りを捧げ、ベッドに横たわった。

 

 ベッドは縦長の箱型で、干し草を厚く敷き、その上にシーツを被せたものだ。

 上掛けは二つ折りにしたシーツの中に、ヤギの毛を詰めていると聞いた。

 軽くて、なかなかに温かい。

 二匹の猫も、上掛けの下に潜り込んで来た。

 ヒズルは『魔導書ベスティアリ』に手を掛け、瞼を閉じる。

 明日から、また旅が始まる。

 『魔導書ベスティアリ』の空白を埋める旅が。

 死者たちへの、祈りの旅が。

 非力な自分には、それだけしか出来ない――。

 ヒズルは顔をしかめ、目尻を拭う。






 一階は、一本の蝋燭の灯りだけが揺れている。

 食卓で、バシュラールとエオルダンは対峙する。

 中央にはボードがあり、そこには黒インクで楕円が描かれている。

 三重に描かれた楕円の中は幾つもの線で区切られ、区切ったマスの中は文字が記されている

 二人は交代でサイコロを振り、木の人型のコマを移動させる。

 つまりは、『双六ゲーム』だ。

 貴族にも庶民にも流行したゲームだが、貴族のゲームボードには美しい絵が描かれていたと言う。

 

「……また、三マス戻りか」

「……真面目にサイコロを振ってくれ。キリが無い」

「……君もな」

 エオルダンはコマを三つ戻し、バシュラールはサイコロを振る。

 四つコマを進めると『一回休み』のマスの上に止まる。

 両者とも、ほぼ自分の狙う目を出している。

 ヒズルが二階に上がってから、かなりの時間が経つのだが――朝まで決着が付きそうに無い。


「……あの子は『東の大陸』に住んでいた種族の血筋だな?」

「……そうだ」

 バシュラールは頷く。

 ヒズルの赤い瞳は、今は亡き東方の少数民族の特徴である。


「あの子と、同じ瞳の少女を見たことがある」

 エオルダンが言い、サイコロを振ると――『四』が出た。

 コマを進め、バシュラールと同じマスに置く。


「……私を殺しに来た『碧い瞳の女』は、幼い少女を連れていた……」

「それをヒズルに話したのか?」

「話していない。少女が『イセルテ』と呼ばれていたこともな」

「そうか……」

「そうだ……」


 バシュラールはサイコロを振る。

 出た目は『一』だ。

 コマを一つ進めると、『六マス戻る』の文字が記してある。


「……『戻る』と『休む』が多い。マスの八割がそうだ」

「……時間つぶしには最適だろう?」

 エオルダンは、自嘲した。

「種子を育て、動物の世話をし、独りでゲームをしている時だけは忘れられる。私が殺した四千人の名と顔をな……」


「僕は、もっと殺しているが」

 バシュラールは、他意なく言った。

 蝋燭の灯が、彼の吐息で微かに揺れた。




 

 同じ頃――納屋に積み上がったわらの中では、マリーレインは頬をブーッと膨らませていた。

「んもう! 何で、あたしがわらの中で寝なきゃなんないのよ!」

 首を伸ばしてわらを振り払うと――その手を犬たちが舐めた。

 マリーレインは犬たちの嬉しそうな顔を眺め、その頭を撫でる。

 そして、壁の細い隙間から射す月光に目を細める。

 

 彼女は、瞳の奥を引き絞った。

 途端に、納屋の中の色は茶と紺を帯びた闇色に変わり、射す光は薄金色に輝く。

 意識しなければ『色彩』を識別できないのだ。

 不便な体だと――彼女は瞼を擦る。


「でも……ヒズルくんには笑ってあげないとね」

 頬を引っ張り、わらに身を沈めた。

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