前章 マリレーネ・ルルドの物語

1話 森を駆ける姫

 風は、若い枝葉を揺らします。

 枝葉の下で、花々が香ります。

 頭上の空は、青く冴え渡ります。

 白い雲は、妖精の羽のようです。


 

 この広い森の主は、大人になる直前の姫君です。

 王城を頂く都市は、大勢の市民が行き交います。

 王と王妃と姉姫は王城に住み、治世に励みます。


 

 しかし、妹姫は城には住めません。

 城から遠い館で、三人の侍女と暮らます。

 四十五歳の侍女から、物語を教わります。

 三十五歳の侍女から、織物を教わります。

 二十五歳の侍女から、織物を教わります。

 

 けれど、妹姫が愛するのは森の草花でした。

 森に住む、シカやウサギやリスたちでした。

 

 

 妹姫は紙と画板と木炭を持ち、森を駆けます。

 薄い金の髪と、灰色の麻のドレスが揺れます。

 昨夜、父王の使いが紙を届けてくれたのです。

 久し振りに、森の草花を描くことが出来ます。

 

 結んだペチコートの中の、丸パンが踊ります。

 喉が渇いたら、清んだ湧き水を飲みましょう。

 

 描いた草花は、七色の糸で布に記しましょう。

 そのために、姫はひたすら森を駆けるのです。

 侍女が知らない、小さな楽園に向かうのです。



 そこは、木に囲まれた小さなお部屋。

 赤茶色い土は、丸い絨毯を敷いたよう。

 その周りを、濃い緑と薄い緑の草が囲みます。

 その周りを、紫色の花と黄色の花が囲みます。

 花々の向こうには、冷たい湧き水が流れます。


 絨毯の真ん中には、向き合う二つの切り株。

 姫のために作ったような、可愛らしい部屋です。


 夏には、花の色が紅色と橙色に変わります。

 秋には枯れ葉色、冬には真白に代わります。



 姫は切り株に座り、木炭で花を描きました。

 紫色と黄色の花は愛らしく、小さな蜂や蝶も訪れます。

 鳥のさえずりは、森に生きる喜びを語って止みません。

 

 

 姫はふと手を止め、色が塗れないのを惜しみます。

 絵の具は高価で、作るのも手間が掛かります。

 後世に遺すべき手稿などに使われるだけです。

 王の娘と云えど、手遊びに使うことは出来ません。

 

 

「いつか、青い絵の具を使いたいな」


 姫は、そう願っていました。

 青い宝石の粉から作る、濃い真夏の空の色。

 館の礼拝堂に飾られた、『女神さま』が纏う聖衣の色。

 天上の真実を意味する、輝く深い青。

 姫の、憧れの色だったのです。




 太陽が、真上に昇りました。

 姫は湧き水で手を洗い、切り株に座り、ペチコートの結び目を解きます。

 生成りのペチコートの中から、二つの白パンが丸い顔を出しました。

 もう一つの切り株に、千切ったパンのかけらを置きます。

 やがて、五羽の小鳥が降りてきました。

 黄色い口ばしで、パンをついばみます。


 姫はニコリと笑い、パンをちぎって口に入れようとしました。

 すると――柔らかな風が吹きました。

 

 不思議な香りがしました。

 森の花の香りとは違います。

 でも、とても良い香りです。

 爽やかで甘い香り……。

 

 

 姫は辺りを見回し、立ち上がりました。

 スカートの裾を両手で持ち上げ、その窪みにパンを入れて。

 

 後ろを、シカが駆ける音がしました。

 一陣の風が、姫の髪をなびかせます。


 姫は、振り返りました。

 

 すぐ後ろに、とても美しい女性が佇んでいました。

 背が高く、首は細く、長い白い髪の先端は地に届いています。

 編んだ一房の髪を、ティアラのように頭頂部に巻いています。

 

 ドレスは薄い紫色で、とても薄い布地に見えます。

 上に羽織った白いマントを、金色のブローチで留めています。

 マントはドレープが無く、けれど優雅に足元に垂れています。

 まるで、流れ落ちる水のように。


 姫は、女性の顔に見惚れます。

 二十五歳の侍女よりも、若く見えます。

 何よりも、礼拝堂にいらっしゃる『女神さま』に似ています。

 薄い眉、小さな小鼻、微笑する薄紅色の唇。

 そして――碧い瞳。


 『女神さま』が纏われた聖衣のような輝く青。

 姫は一瞬で、女性に心を奪われました。

 姫を産み、七日後に天に召された母君を思います。

 姫は、思わずスカートから手を離しました。


「……あっ」


 パンが宙に浮き、声を上げます。

 侍女が焼いてくれた大麦のパン。

 勝手に台所から持ち出したパン。

 

 丸いパンは赤茶色の絨毯の上に落ち、少し跳ねて止まりました。

 お昼御飯に、土が付いてしまいました。

 姫は、ほーっと息を吐きます。

 パンは、鳥たちにあげましょう。


 けれど……


「あの……ごきげんよう……」

 姫はパンを拾い、土を払い、女性に話しかけました。


 すると、女性はマントの下から小さな箱を出しました。

 それは銀色で、赤い宝玉で飾られています。

 蓋が開くと、中にはいくつかの透明な玉が入っていました。


「お腹が空いているでしょう。口に入れて」

 女性は、箱を差し出します。

「『露玉つゆだま』よ。蜜と魔法の薬草を煮て作ったの」


 女性の声は少し掠れていましたが、とても聴き取りやすい声でした。

 その声に、たちまち心が騒ぎます。

 姫は、訊ねました。


「魔法の薬草……あなたは『森の妖精』さん?」

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