19話 満ちる月を越えて


 ラージャ・タリアシンは、渡された小刀を目の前に翳す。

 柄は木製で、古き魔導文字ルーネが彫られている。

 革製の鞘も黒ずみ、破れを繕った痕跡もある。

 だが、その内側の刃から溢れる閃光は強大だ。

 その刃の先端に触れれば、命は消えるだろう。

 


「ラージャ・タリアシン……天上輪都市バルトゥスの目的は明白だ。かの地の『シン』は、死神アンクウを異界に放逐しようとしている。それは死神アンクウにとっては、悪しき事態だ」


『イドルフィン』は、冷徹に真相を語る。


「召喚された死神アンクウは、三百六十五体だ。だが異界と現世界の境界に挟まれ、その倍以上が滅したらしい。生き延びた存在ものも弱体化が進み、放逐に耐えらるか不明だ」


「……天上輪都市バルトゥスも死神どもも、ヒズルを必要としてるってことだな?」


 

 

 ――ラージャ・タリアシンは自らの言葉を思い出し、眠っているヒズルを見た。

 天上輪都市バルトゥスが求めるのは、ヒズルの血と命だ。

 それを鍵として死神アンクウを排し、この世界を守り抜こうとしている。


 死神アンクウたちも、現世界よりの緩やかな脱出を試みようとしている。

 それにも、やはりヒズルが必要なのだろう。

 自らを贄としたグ・シン公の血が。



「ラージャ・タリアシン……ひとりの人間としての、ミカギ様の言葉を伝える」

 『イドルフィン』は告げた。


 

「……我には、ヒズルは甥に等しい存在だ。

 姉の夫の子の末裔……。

 人ならぬ姿で産まれ、死の霊獣アン・クウと出会い、人の子として生まれ変わった。


 旅の中で、人の幸せを得た。

 多くの友を得た。


 甥は、友が傷付けるのを望まぬことは解かっている。

 甥は、死の霊獣アン・クウぐのための『贄』となるのを拒むであろう。

 

 その時は、そなたが甥の命を断ってはくれまいか。

 その刃が触れた身は、たちまち精霊の加護を断つ。

 その身は苦痛も無く大気に溶け、魂は天へと還る。


 ……我は、間違っている……

 この世が滅びて良い筈はない。

 甥が贄となったとしても。

 なれど、心はそれを許さぬ。


 炎の申し子よ。

 そなたに託すのは、余りに身勝手と心得る。

 だが………

   ………   」





(……知るか、干物ババァが!)


 小刀をそっと床に置き、裸足で踏み付ける。

 傍らでは、あえかな陽光が『魔導書ベスティアリ』を照らしている。

 表紙は碧く輝き、金色の光の粒が舞う。

 光の妖精が、呼んでいるのであろうか――

 光の粒は、ラージャを導くように右手に纏わる。


 ラージャは、『魔導書ベスティアリ』をヒズルの腕から引き出した。

 彼から離さぬように、慎重に捲る。

 

 しおり代わりの折り目を入れた頁を開くと、湯屋の絵が目に飛び込んだ。

 湯浴み着姿のカイルが真ん中に立ち、その右隣にヒズル。左隣に自分がいる。

 ヒズルと自分は、カイルと手を繋いでいる。

 絵の中のヒズルの股間は、『魔導書ベスティアリ』で隠れている。


(……オレだけ、ちんこ丸出しじゃねーか)

 目を凝らすと、絵の下に文字がある。


『カイルさんとラージャと、なかよくお風呂に入りました』


(……バカ……嘘を書くなよ……)


 ラージャは鼻を啜る。

 そっと『魔導書ベスティアリ』を閉じ、ヒズルの腕に戻す。

 落とした小刀を拾い、自分の寝床に置いた。

 

 持っていても、損は無い――。





 

 ……日没が訪れた。

 ヒズルたちは、岩窟の出入り口に立つ。

 新しいマントに身を包むヒズルとラージャ。

 そしてスイレン、マリーレイン。バシュラール。

 

 バシュラールは、日が傾く前に戻って来た。

 ヒズルは抱き付き、待ってたと呟いた。

 バシュラールは、黙って頷いた。


 カイル、イドル、アグナイ夫妻、司祭が見送りに来た。

 ヒズルは頭巾を取り、挨拶をする。

「お世話になりました。色々と教わり、とても楽しく過ごせました。食料も薬も頂いて……御恩は忘れません。ミカギ様にも、よろしくお伝えください」


「いつ、戻って来ても良いのよ」

 ガレリア、ヒズルを抱きしめる。

 ヒズルは頷き、その温もりに瞳を濡らす。

 


「……マントも頭巾も……ありがとうございます」

 ラージャも頭を下げる。

 黒く染められたマントは立て衿が付いており、右肩を金属のブローチで止める。

 長さは膝下まであり、ふんだんにドレープが入っている。

 ヒズルのマントも染めていないだけで、同じ仕様だ。

 

 満更でも無さそうな顔のラージャに、イドルは微笑みかける。

「君の古いマントは、ミカギ様がお使いになられる。他の魔導師たちのマント同様、世界の記憶の一部として……ここの民の詩や舞踏の一部となって語り続けられる」


「……はい」

 ラージャに代わって、ヒズルが頷いた。

 人々の語りや舞踏も、記憶の継承手段だ。

 天井に彫られた先史時代の絵、ミカギ様の玄室の魔導師たちの名。

 世界のどこかで人は死に、けれど人が生きた証は様々な形で遺る。



「行って来ます!」

 ヒズルは声を上げ、沈む太陽を眺める。

 ここを訪れた時とは違い、迷路は解除されている。

 月が昇った方角に進めば良い。

 東に向け、力強く踏み出す。


 別れを惜しむ声と激励が飛び交う。

 棚田から、窓からも送る声が舞う。

 子供の声も、大人の声も。

 この瞬間も、『魔導書ベスティアリ』は刻々と文字を打つ。

 人間が生き延びる未来のために。



「……あらら」

 マリーレインは、肩越しに後ろを見た。

 五十歩と歩いていないのに、背後の岩窟は日没の空に溶けて消えた。

 迷路は解除されたが、岩窟を守る結界は直ぐに形成されたらしい。

 後ろには、赤味を帯びた黄色い砂漠があるだけだ。


 ヒズルは岩窟の人々の末永きを祈り、隣を行くバシュラールを見上げた。


「岩窟村の人たち……すごく優しかった。色々聞かせてあげるよ」

「そうさせて貰う……」


 バシュラールは、前を向いたまま言う。

 いつも通りの彼で、ヒズルは安堵する。

 彼が『天使さま』であることは変わりない。

 彼のお陰で、こうして生きているのだから。

 そして――


「ミカギ様……」

 ヒズルは黒衣の巫女を思い出し、遅い瞬きを繰り返す。

 自分の出自を明かしてくれた、同郷の女性だ。

 この戦いが終わるまで……あの地下の玄室におわすのだろう。

 今一度会おうとしたが、もはや話すこと無しと断られた。

 けれど……今も見守っていて下さっているに違いない。



「行こう……スイレン」

 ヒズルは愛馬の頬を撫で、昇る月を見る。

 金色の光が、また砂漠を満たす。

 しばらくは、この光の中を進むだろう。

 

 その先に、始祖の地がある。

 けれど――


 いつか、生まれた地に『魔導書ベスティアリ』を捧げる。

 街の人々、おじいちゃん、お父さん、お母さん。

 そして、テオドラ。

 あの地に、いつか帰ろう。


 ヒズルは『魔導書ベスティアリ』を収めた革袋を背負い、歩を進める。

 未来へ――。



  † 次章に続く †

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る