2話 妖精の乙女
姫は首を傾げ、女性の碧い瞳を見上げます。
濃い碧、薄い碧、光に透ける碧。
宝石のように輝きます。
その美しさに、姫は心惹かれます。
そして、女性が持つ箱の中の『
それは、どんな香草よりも爽やかな香りを放っています。
澄んだ玉の真ん中には、薔薇色が閉じ込められています。
「こんなの、見たことがないわ。妖精さんの食べ物なの?」
「私たちは、食べたり飲んだりする必要は無いの。これは、友達だけにあげる物よ」
女性は、優雅に微笑みます。
その微笑みの美しいこと。
姫は両手を伸ばし、箱を受け取りました。
箱の中の『
姫は顔を綻ばせ、『
それはとても甘く、舌の上でたちまち溶けてしまいました。
その甘みが消えると――お腹がいっぱいになりました。
喉も潤います。
「不思議だわ。本当に、あなたは妖精さんなのね?」
腰を落とし、姫君らしく感謝の意を示します。
「あたしは、マリレーネ・ルルドと申します。妖精さんのお名前は?」
「私には、名前は無いの」
「……ずっと、この森に住んでいたのですか?」
「いいえ。私は、北の大陸の東の地から来たの」
「……大陸の東?」
姫は、侍女の話を思い出します。
海を越えた北には、大きな大陸があります。
その大陸の東の地は、姫の祖母が生まれるずっと前に枯れ果てた――。
そう教わりました。
――この妖精さんは、東の地に住んでいたのね。
――そこから逃げて来たのね。
姫はそう解釈し、妖精を可哀想に思いました。
この妖精さんも、独りぼっちなのかも、と。
「分かったわ。じゃあ、あたしが妖精さんの名前を付けてあげる」
姫は、無邪気に言いました。
「エニルダ……あなたのお名前は『エニルダ』よ。古い神話の妖精の名前」
すると、妖精は屈んで姫の手をさすります。
「ありがとう。マリレーネ。良い名前だわ」
「エニルダさん、また明日会えますか? 天気の良い日は、いつも森に来るんです。明日も会いたいです」
「もちろんよ、マリレーネ。私たちは友達ね」
「はい!」
姫の顔は、喜びに輝きます。
「誰にも言わないわ。エニルダさんと会ったことは、あたしだけの秘密」
「そのようにお願いするわ。他人に知れたら、私は森に居られなくなるの」
「はい!」
「私は、あなたが森に来た時に現れる。待っているわ」
そう言うと――エニルダの真白の髪が、鳥の羽根のように広がりました。
それは大きく羽ばたき……エニルダは消えてしまいました。
姫は驚きましたが、感動に胸が膨らみます。
本当に妖精はいた――
伝説じゃなかった――
けれど、『
持ち帰りたいけれど、見つかったら咎められるでしょう。
エニルダのことが、侍女たちに知られるかも知れません。
姫は、切り株の椅子の窪みに箱を置き、枝で覆います。
千切ったパンをもう一つの椅子に撒き、館に帰りました。
夕食は、ライ麦パンとチーズ、リンゴの搾り汁。
鶏肉と玉ネギのシチューに、イチジクのタルト。
シチューには、貴重な胡椒が入っています。
美味しい料理でしたが、『
その後はお人形遊びをし、寝床に入りました。
今宵も、侍女が物語を語ってくれます。
それは、妖精の乙女の物語です。
騎士グエンが海辺にいると、小舟に乗った美しい乙女が近付いて来ました。
乙女はグエンに真っ赤な林檎を手渡し、去って行きました。
その林檎はとても甘く、かじってもかじっても減りません。
仲間の騎士たちは、「それは妖精の林檎だ」と言います。
妖精の林檎を食べると、妖精の国に連れ去られるのだと。
仲間たちはグエンから林檎を取り上げ、土に埋めました。
しかし翌朝には、林檎はグエンの枕元に戻っていました。
三日後、グエンは「歌が聞こえる」と言って、城を出ました。
仲間たちが追うと、グエンは波打ち際にいました。
小舟に乗った乙女が、近付いて来ます。
仲間たちは剣を抜こうとしましたが、剣は鞘から離れません。
グエンは仲間たちに別れを告げ、小舟に乗りました。
小舟はすぐに波打ち際を離れ、見えなくなりました。
砂の上には、枯れた林檎の芯だけが残っていました。
――姫が眠ったと思った侍女は、部屋から出て行きます。
けれど、姫は眠っていませんでした。
大きな瞳を開け、胸の上で両手を握り締めます。
(……どうしよう。『
姫は、後悔します。
妖精の食べ物を口にしたら、妖精の国に連れて行かれるのです。
エニルダは美しくて優しい。
けれど、人間の世界を離れたくはありません。
明日、森に行くか行かないか。
迷いながら、眠りに付きました。
翌朝も、良いお天気でした。
姫はベーコン入りの粥を食べ、館を出ます。
この世界で、会うだけで良い。
だから、友達でいて下さい。
エニルダに、この想いを伝えるために。
姫は、画板も丸パンも持たずに森に向かいました。
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