4話 妖精の旅が始まる

 エニルダが森から去り、さらに二年が過ぎました。

 

 春の終わりが近付いた頃。

 森の外れの小さな館は、深い沈黙に包まれていました。

 三人の侍女と老いた司祭は、礼拝堂で祈りを捧げています。


 ――朝が来るまで、女神さまに祈っていて。

 ――静かに、見送って。


 その言いつけに従い、侍女たちはベールを被り、司祭と共に霊唱します。

 館の主の魂が、女神さまに抱かれることを願って。



 

 ――とき同じ、館の二階の部屋。

 ランプの灯りと暖炉の炎が、暗い部屋を照らしています。

 ベッドに臥せるマリレーネは、薄っすらと瞼を上げています。


 もう、痛みは感じません。

 心は穏やかです。


 何の心配もありません。

 今後十年間、侍女たちには今と同じ給金が支払われます。

 父王さまは、そう約束してくれたのです。


 マリレーネは、傍らのテーブルに瞳を向けます。

 お人形と、女神さまの小さな木像があります。



 

 ――窓が開きました。

 夜風が速やかに、森の香りを運んで来ます。


 お腹の上に、何かが置かれました。

 花の香りが立ち昇り、マリレーネは大きく瞼を上げました。

 女神さまの木像の反対側に――エニルダが居ました。

 その背後には、ベールで顔を覆った女性が居ます。

 女性は、音も無く部屋の隅に移動します。



「……やっぱり来てくれた」

 マリレーネは囁きます。

「お母さまと同じ病気なの……出血が止まらないの……」


「……分かっているわ」

 エニルダは答えます。

 マリレーネは手を伸ばし、エニルダの頬に触れました。

 碧い瞳が、晴れた空のように輝いています。

「綺麗な碧……あの頃のままだ……」


「あなたもね……」

 エニルダは、マリレーネの編んだ長い髪に触れます。

 昼に、侍女たちが丁寧に拭いてくれたのです。

 香草の、良い香りが漂っています。


「……あたし……どうすれば良いの?」

「……私の力を受け取って。私の魂が消える前に」


 エニルダは、顔を伏せます。

「誰かに託さなければならないの。そうでなければ、力が暴走してしまう」


「そのために、あたしを選んだのね? あたしが病気になることも分かってたのね」

「……ごめんなさい……」


 エニルダは、弱々しく微笑みました。

「誰でも良い訳じゃないの。魂が惹かれ合わないと駄目なの」


「……あたし、妖精になるんだ……。女神さまの所には、行けないのね」

「……マリレーネ……」


「……ちょっと怖いけど……大丈夫だよね?」

「……辛い戦いになるわ。でも、仲間がいる」


「……うん……」

 マリレーネは頷きました。

 エニルダの記憶が、静かに流れ込みます。

 彼女が生きた証が、静かに語り掛けます。


 ――この星を救って。

 ――私たちを救って。

 ――命を絶えさせないで。




「……あたしが眠るまで、傍に居て」

 マリレーネは、お腹の上に置かれた花冠に触れました。

「…エニルダに出会えて良かった。妖精になって、あの森を守るね」


 マリレーネは瞼を閉じました。

 エニルダが子守歌を歌います。


 

 ――妖精よ。

 ――今宵は、火守りをしておくれ。

 ――朝まで炎が灯っていたら、焼き立てパイをあげましょう。

 ――赤いリンゴと黄色いリンゴ。

 ――東の国のお妃さまの、大好きなライチも入れましょう。

 ――干したブドウがパイ皮の上で踊り、

 ――蜂たちが、甘い蜜を振りかけます。

 ――ティラリッラ、ティラルッラ……







 少女は、目を開けました。

 背伸びをして見回すと――そこは、懐かしい森でした。

 空は高く青く、緑の葉は風に揺れ、花が咲き乱れています。

 射す光は柔らかく温かく、輝きに満ちています。


 

 少女は長い薄紫色のドレスを翻し、駆け出しましたが――

「……じゃま!」


 少女はドレスの丈を縮め、長い髪をスルリと二つに結い上げます。

 

 あの頃のように走り、草花と戯れる。

 もう一度だけ、この森で。



「……あなた、平気なのね」

 見守っていた『妖精』が、ベールを取りました。

 エニルダと同い年ぐらいに見える彼女の名を、少女は知っていました。


「平気よ、イセルテ。光を浴びても冷たくない。温かくて気持ち良い!」

 

 少女は翠の瞳を輝かせます。

 この先に、あの二つの切り株の部屋がある。

 もう一度だけ、あの部屋で。

 戦いに身を投じる前に。


「……よほど、相性が良かったのね」

 イセルテは無表情のまま、後を追います。

 妖精は、心を顔に表すと苦痛に襲われるのです。

「マリレーネ、待って」


「……マリーレイン」

 少女は振り返りました。

「これからは、そう呼んで!」


 マリーレインは、森を駆けて行きます。

 あの館では、侍女たちが埋葬の準備をしているでしょう。

 マリレーネの体は、お人形と女神さまの像と共に地に還るのです。


 

 ――魂は、女神さまの所には行けなかった。

 ――けれど、生きている。

 ――妖精となって生きる。

 ――いつか、エニルダの力を異界に帰すまで。



 マリーレインの、長い旅が始まりました。

 エニルダの『力』と『心』を受け継いで。



 † 次章に続く †

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幽空のベスティアリ ―碧き瞳の智天使―  mamalica @mamalica

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