2章 浅茅が宿
1話 宿屋『月の里亭』
雨は止まない。
広くはない客室の空気は、湿気とカビの臭いで重く沈む。
激しい雨は絶えず木窓を打ち、開けることは
室内の明かりは、古びた鉄の燭台に立つ二本の蝋燭のみである。
バシュラールはテーブル中央の燭台をずらし、手桶に小量の水を注ぐ。
手桶は木製だが、水差しは素焼きの陶器だ。
口の部分が少し欠けているが、使い勝手に支障はない。
借りたリネン製のタオルを手桶に漬け、濡らして絞る。
タオルは新しく、表面にも毛玉は出ていない。
「……痛むか?」
ベッドにうつ伏せに横たわるヒズルに語り掛ける。
三日前――高熱を出した彼を、この宿屋『月の里亭』に運び入れた。
バシュラールの身なりを見た宿屋の亭主は、すぐに三階の個室に案内してくれた。
上客だと判断したのだろう。
ここ『月の里亭』は、街道の十字路近くに建つ三階建ての宿屋である。
一階は、囲炉裏のある食堂と台所と、小さな礼拝所。
二階は、大部屋。
三階は、個室が十二部屋ある。
経営する亭主夫妻は、別棟の二階建ての家に住む。
広い中庭の中央には井戸がある。
それを囲むのは、パン焼き窯、厩舎、湯屋とトイレ。
ワインの醸造所まである。
旅人や商人の憩いの宿らしく、下の大部屋からは男たちの話し声が聞こえる。
「……火傷のようだ」
ヒズルの背を見て、搾ったタオルを額に当てる。
背中の皮膚は焼けただれたように引き攣り、紫色の
昨日の朝には、彼の背にあった六本の腕が、乾いた土が崩れる如くに剝げ落ちた。
代わりに肩から腕が伸び、脚の形も変わり始めた。
母親から受け継いだ黒い
いわゆる、『人』の姿を取り戻しつつある。
あの時、あの『街』に如何なる『災い』が降り注いだのか――
数世代のうちに、『人』は『異形』へと変化したらしい。
それが急速に逆回転を始めたのだから、激痛と高熱に苛まれるのは当然だ。
「……おかあ…さん……」
ヒズルの口から、荒い息と共に切ない呟きが漏れる。
彼の傍らには、『
今、これを取り上げたら――彼の心臓は、すぐに停止するだろう。
『
「お客さん、入るよ」
ドアの外から、亭主の妻が声掛けした。
バシュラールは「どうぞ」と答え、ヒズルの背を毛布で覆う。
同時にドアが開いた。
亭主の妻は、茶色のドレスにガーゼのボンネットという庶民の服装だ。
「夕食だよ。弟さんの具合はどうだい?」
五十代半ばと思しき亭主の妻は、下げていた編かごを
ライ麦パンとチーズの塊。
深皿に入った根菜とベーコンのスープ。
ワインと、林檎の搾り汁が入ったコップ。
それらが隙間なく、編かごに収まっている。
「まだ熱がひどいね。可哀想に。少しでも食べられると良いんたけど」
亭主の妻はヒズルの額に手を当て、眉をひそめる。
「修道士さまは、何て言った?」
「旅の疲れではないかと。お薬もいただいて、助かりました」
彼は、亭主の妻に頭を下げる。
亭主の妻は、廊下に置いていた燭台を持って来てテーブルに乗せた。
「ほら、これも使って。暗いと不便だろう。雨のせいで、月も見えやしない。天気が良いと、月や星明かりが綺麗なんだよ。窓も開けられるのにね」
「お心遣い、ありがとうございます」
「なに言ってんの。お互い様だよ。水が必要なら、台所の
亭主の妻は、慣れた様子でヒズルの頬を撫で――退室する。
バシュラールは林檎の搾り汁入りの木製のコップを取り出し、ベッドに掛けた。
『
昨日もこうして『
「……夕食の時間だ」
ヒズルの肩を抱いて起こし、左腕で支える。
彼の身と 『
「……飲めるか?」
訊ねると、ヒズルは薄目を開け――コクリと頷いた。
スプーンで林檎汁をすくい、唇に当てると、彼は自らの力で液体を喉に流し込む。
必死に、生きようとしているのが判る。
ヒズルがコップの中身を飲み干すと、静かにベッドに横たえた。
先ほどよりも、寝息が穏やかになっている。
明日は、今日よりも回復しているだろう――。
雨は少しも休まずに、木窓を叩く。
馬が嘶き、車輪が地を走る音が聞こえた。
新たな客が訪れたのだろう。
バシュラールは、背もたれの無い椅子に座った。
出された食事は、片付けなければならない。
チーズの塊を切り、スライスされたパンに乗せ、口から体内に入れる。
二人分のスープも同様に処理する。
香辛料の入ったワインも飲み干した。
こうすれば、亭主夫妻は満足する。
体調が悪いの?とか、お口に合わなかった?とか――余計な詮索をされない。
彼は着衣を全て脱ぎ、ヒズルの隣に横たわる。
ベッドの幅は広めだ。
二人の大人が寝られる大きさに作ってあるらしい。
睡眠も不要だが――こうすると、ヒズルが落ち着くことを学んだ。
ヒズルは、他者と触れることを欲している。
だから今夜もこうした姿勢で、彼に寄り添う。
彼のために。
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