5話 闇転

 断崖の反対側の傾斜は緩やかだった。

 だが手を付いて登っても、転がり落ちる危険が高い。

 積雪の下の地表は凍り、磨き抜かれた輝石と化しているのだ。



「……こりゃ、冬には登れねえな」

 ラージャは、頂上へと連なる杭の列を見上げた。

 一定間隔で刺った杭は、祠への道しるべを成す。


「これにロープを結んで、手掛かりにして登ろうとしたんだな」

「でも、ロープが無いよ」

 ヒズルが手近の杭に触れると、それはガクガク揺れた。


「誰かが落ちて、怪我して止めたんだろ」

 ラージャは火岩石かがんせきを出し、左のてのひらに乗せる。

 ハシバミ色の瞳で頂上を凝視し、呼吸を整える。


 すると、彼の足元周りの雪が――溶けた。

 彼の足元から、熱い湯が染み出たように。

 ヒズルは感嘆して叫ぶ。


「すごい! それも魔導術なの?」

火岩石かがんせきに願いを捧げ、岩場に宿る火の精霊の力を借りた」

「魔導術って、物語のように呪文を唱えて使うと思ってた」

「触媒があれば、この程度の術なら呪文はいらねえ」

「しょくばい……ああ、『触媒』だね」


 『魔導書ベスティアリ』は、難しい言葉の意味を教えてくれる。

 『触媒』とは、魔導術の発動に必要な『物体』だと。

 『物体』を通して、魔導師は自然の力を操る。

 『魔導書ベスティアリ』も、広い意味では『触媒』と言える。



「さ、登るぞ」

 ラージャは右手を差し出す。

 ヒズルはそれを握りしめ、共に登る。

 向かう先の斜面の雪は、岩と土の隙間に滑らかに溶け入る。

 現れた一本道は、二人を導くように伸びる。



「……お前、前に『魔導書ベスティアリ』の主のテオドラは、大地の精霊って言ったよな」

「うん。あとで見せてあげる。とても美しい姿なんだよ」


 ラージャの問いに、ヒズルは晴れやかに答える。

 一緒に寝ている時、ラージャに何度も話しかけた。

 育った街のこと、バシュラールと出会った時のこと。

 そして、テオドラから託された『魔導書ベスティアリ』と希望。

 その時の彼は、頷いてもくれなかったが……



 だが――ヒズルは疑問に突き当たる

 エオルダンは、都市住民は『結び目サウィン』で『シン』に繋がっていると言った。

 

 ヒズルは、ラージャの出身地を知らない。

 だか『シン』と繋がってるなら、その都市からの移動は慎むだろう。

 移動中に『シン』が倒されては元も子もない。

 魔導師は『シン』に繋がれていないと考えるのが自然だ。

 彼は、自由の身なのだ。

 


 考えながら進んでいると、頭上を枝影が覆った。

 斜面に根付いた大樹が、ここからも見える。

 ずっと昔に、この地域の人々は火岩石かがんせきの特性に気付き、岩山を削った。

 しかし岩山に畏怖を抱き、山の精霊を祭るようになった。

 ヒズルは、この寒冷地に生きて来た人々に思いを馳せる。 



 やがて、二人は頂上に達した。

 頂上の雪も溶けている。

 半円形に近い岩場は整地され、煉瓦と粘土で組み上げられた祠がある。

 祠の高さは成人男性よりやや高め。

 幅と奥行きは、二人が手を繋いだぐらい。

 扉は無く、簡素な石壇の上に小さな石碑が載っているだけ。

 石碑は、四角く切り出した石を荒く削っただけに見える。



「切り出した火岩石かがんせきを祭ってる。かなり古い」

 ラージャは石碑に右手をかざし、深く目を閉じて語る。

「ずっと昔……石は洞窟に祭られてた。毛皮を着たシャーマンが跪いてる。洞窟は、採掘された場所にあった。人は、そこを火の神の御座所と崇めていた……」




「……ラージャ……」

 ヒズルの震え声がした。

 同時に、気配に気付く。

 石の記憶を読むのに集中し、周囲には注意を払わなかった。



「……クソくせえ」

 ラージャは振り向いた。

 祠の外のヒズルは真っ青だ。

 その左手を、見知らぬ女が握っている。

 隣には、腕組みをする長身の男がいる。


「……てめえら、ケツ拭いてるか? クソまみれの汚ねー奴らだ」

 罵ってはみたものの、二人のクロークに冷や汗が浮かぶ。


 足先まで隠れる黒いクローク。

 襟に留められた白い羽根飾り。


 天上輪都市バリュトスに住むことを許された最上級の魔導師たちだ。

 紫の羽根飾りを付けた者となると、触媒も霊唱も抜きで魔導術を使うと聞く。

 だが、二人の羽根飾りは白い。

 最上級魔導師の中の最弱クラスだ――。



「下品な子ね」

 茶髪の女は笑った。

 男は足で祠を蹴る。

「……こんな所で争いは止めよう。僕たちは、君たちを迎えに来たんだよ」


「はあ? ふざけんな。クソ仲間に加われるか!」

 ラージャは虚勢を崩さない。

 瞳にギラギラした殺気が戻り――その鬼気たる表情に、ヒズルは喉をゴクリと鳴らした。

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