5章 炎の魔導師

1話 スノードロップ

 

  * * * * *

 

 妖精は、人間とは一緒に暮らせない。

 

 人の足音を感じると、素早く風と化して飛び去ってしまう。

 人の言葉を感じると、素早く水に溶けて泡になってしまう。

 人の体温を感じると、素早く地に潜って深く眠ってしまう。

 人の吐息を感じると、素早く炎と化して敵を燃やし尽くす。


 

 『炎の魔術師のための教導書 ―― 序章より』


  * * * * * 

   

 

  



 ……ヒズルは、夢の中で母の歌声を聴いていた。


 ――妖精よ。

 ――今宵は、火守りをしておくれ。

 ――朝まで炎が灯っていたら、焼き立てパイをあげましょう。

 ――赤いリンゴと黄色いリンゴ。

 ――東の国のお妃さまの、大好きなライチも入れましょう。

 ――干したブドウがパイ皮の上で踊り、

 ――蜂たちが、甘い蜜を振りかけます。

 ――ティラリッラ、ティラルッラ……


 

 母のガーゼのヘッドドレスの下からは、黒い後れ毛が覗いている。

 リネンの灰色のドレスに白いオーバードレスを重ね、座って糸を紡いでいる。

 くるくる回る糸車の横で、ヒズルは猫と遊んでいた。

 傍らには、兵士と馬の木彫りのおもちゃがある。

 

 けれど、明日からは父や祖父と一緒に、街の一番大きい鍛冶場に通う。

 本当は、騎士様になりたい。

 でも、家業を継がねばならない。

 だから――いつか、神話の太陽剣『ガラティン』のような名剣を造りたい。

 その剣を穿いた騎士様が、国や街を守ってくれるだろう……


 目の前を、白馬に跨った雄々しい騎士様が通り――夢から覚めた。

 優しい歌声は、まだ心を震わせているけれど、夢は夢だ。

 

 

 手を伸ばし、『魔導書ベスティアリ』が枕元にあるのを確認する。

 二枚重ねの毛布をめくり、寝室の真ん中の炉を見ると――平たく並べた火岩石かがんせきが、あえかな炎を発していた。


 火岩石かがんせきは、村から半日かかる岩場で採れる石だ。

 けれど、もう百年ほど採掘されていない。

 掘り尽くさぬよう、大切に大切に使ってきたから。


 手のひらに握れる大きさに砕いた石を、炎にかざす。

 すると、焙った石のように弱い熱を発する。

 それらを並べると、炎が石の上に浮かぶ。

 炎は温かいが、手を差し入れても火傷はしない。

 ただ空気を温め、家の隅々まで暖気で満たしてくれるのだ。


 三十回ほど使えば、火岩石かがんせきの効果は無くなる。

 そうなれば、網に入れて川に沈めたり、雪に埋める。

 一日かけて冷やせば、再び熱を発するようになる。

 寒い冬には、村人の命の糧となる貴重な石だ。


 冬が明けると、村長と僧侶と乙女が、岩場に貢ぎ物を持って行く。

 月に一度、村で採れた香草や乙女が作ったスープを、山の祠に捧げるのだ。

 祠には火の精霊が住むと、村人たちは信じている――。



 ――ヒズルは、そっとベッドから降りた。

 床に座って靴下を履き、緑色のチュニックを羽織る。

 『魔導書ベスティアリ』を抱え、足音を忍ばせて寝室を出る。

 出る前に、先程まで寝ていたベッドを振り返る。

 ベッドの左半分は、こんもりと盛り上がっている。

 ヒズルは、ラージャとベッドを分け合っているのだ。


 

 ラージャ・タリアシンと名乗った少年は、ヒズルより年上らしかった。

 濃い赤茶色の髪は、無造作に肩の辺りで断っている。

 赤味を帯びた薄緑色の瞳は、ヘーゼルの木の実のよう。

 修行中の魔導師が着る(バシュラールがそう言った)黒いチュニックとズボンに、緋色のマントを身に付けていた。

 それらは所々擦り切れ、たどった道程みちのりの過酷さが伺えた。


 夏の終わりに出会った時――彼は叫び、襲い掛かって来た。

「死神どもめ、死ね! お前らは、オレの仲間の命を奪った!」




(……ラージャ……)

 ヒズルは嘆き、寝室のドアを閉めた。

 居間では、バシュラールとマリーレインが椅子に掛けていた。

 向き合う二人の間では、火岩石かがんせきが緩やかな炎を放っている。

 二人とも、糸巻き棒で亜麻糸を紡いでいる。

 糸車より効率は落ちるが、二人は歯車のような正確さで糸をよじり、棒に巻き付けていく。



「おはよう!」

 マリーレインは微笑み、元気よく声を掛けてくれた。

 ヒズルも、二人に挨拶を返す。

 

 二人は兄妹と称し、白い髪を薄い茶色に変え、旅芸人の衣装を着ている。

 バシュラールは、白シャツに緑のチュニック、赤いズボン。

 マリーレインは、白いヘッドドレスに黒いリボンの付いた赤いドレス。

 ヒズルを、病死した芸人仲間の子供だと偽った。

 ラージャを、心の病で殆ど喋れない従兄弟だと偽った。


 村の人々は、若き旅芸人たちを大歓迎し、春までの滞在を望んだ。

 こうして、四人は村はずれの小屋に住んでいる。

 スイレンは、馬小屋に預けている。



 ヒズルはブーツを履き、村人から借りた毛皮のクロークに袖を通す。

 毛皮の帽子を、深く被る。

 『魔導書ベスティアリ』を入れた厚い麻袋を肩に掛け、扉に手を掛けた。


「馬小屋に行って来るね!」


 ヒズルは放たれた矢のように――家から飛び出す。

 目の前は、一面の銀世界だ。

 膨らんだ青い空の下――足首まで届く雪は、白く輝いている。

 小さな銀色の光が、キラキラと中空で閃いている。

 白い息が、澄みきった冷たい風にを吹き飛ばす。

 昨夜に降った雪は、昨日の足跡を消している。

 

 ヒズルは、愛馬たちが待つ小屋へと駆け出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る