2話 森の主(あるじ)

 三人は、『森』に足を踏み入れた。

 その瞬間、空気は一変した。

 芳香なる風は止み、ほろ苦い土と草の香りに包まれる。

 間隔を開けて直立するブナの木と、足首まで伸びた草の中に三人は立っている。

 

 空の透明感は増し、枝の隙間から射す光は暖かく眩しい。

 振り返ると――背後の平原は消えている。

 ブナの木に列柱だけが広がっている。

 ヒズルは面食らったが、不安は感じなかった。

 バシュラールはこの『森』を知っているのだから、恐れる必要はない。

 

 二度深呼吸し、肩の力を抜くと――鳥たちのさえずりが耳を震わす。

 草葉の向こうには、紫色の花が咲き乱れている。

 それは、紫色の布を敷き詰めたように艶やかだ、

 

 ヒズルは駆け寄り、鈴状に膨らんだ花びらを眺める。

 八個ほどの花びらが、茎に沿って下を向いて並んでいる。

 鼻を寄せると舌の奥に微かな苦味を感じたが、すぐに花蜜の甘い香りに変わる。

 

「ブルーベルの花よ。妖精が住むと言われた花。西の島国の固有種だった」

 マリーレインも隣に来て、小さな可憐な花を覗き込む。

「敵がこの森を追いかけつつも、焼け野原にしないのは……」


「絶滅した藻類そうるいが、森には生息している。ゆえに『シン』を倒すのを躊躇ためらっている」

 バシュラールの説明に、ヒズルは納得した。

 森のあるじが『シン』であれば、それを倒せば『森』も消える。

 『森』が消えれば、貴重な植物も失われるのだ。

 

 だが――バシュラールたちの目的は、『シン』の破壊だと思っていた。

 けれど、彼の仲間が『シン』を守っているなら、それは誤りだったことになる……



 花を眺めながら考えていると――マリーレインが欠伸あくびをした。

「ねえ、森のご主人に会おうよ。朝ご飯も食べたいし」

 そう言うと、紫の花を避けてスキップで進み出した。

 バシュラールは無言で歩き始め、ヒズルもそそくさと二人を追う。

 昨夜の食事は、干した魚と焼きキノコ、ラズベリーだった。

 狩りの話はともかく、まずは空腹をどうにかしたい。



 

 かくして、彼らは『森』の奥に向かう。

 川のせせらぎが聞こえるが、移動する森に水源があるとは思えない。

 精霊だった『シン』が支配する森は、不可思議に満ちているのだ。。

 

 道すがら、ヒズルはジューンベリーの実を摘まんだ。

 口の中で弾ける赤い実は甘く瑞々しく、近くでは二頭の鹿も相伴に預かっている。

 地を走るリスも、落ちた実を失敬して走り去る。



 

 やがて――自生する木の間隔が広くなった。

 白い花を抱く低木が増え――その先に平地が見えた。

 

 そこにあるのは、低い柵に囲まれた二階建ての小さな家だ。

 三角屋根は藁ぶきで、壁には粘土が盛られている。

 隣接する小屋は貯蔵庫だろうか。

 小さな畑と、井戸も見える。

 

 

「……辺鄙へんぴな土地の農民の家、って感じね」

 マリーレインは、先陣を切って畑の横を進む。

 すると、ワンワンと吠える声が響いた。

 犬を飼っているらしい。

 せきたてられたように、小屋の周りのニワトリたちが走り出す。

 小屋の屋根に寝そべっていた二匹の猫も起き上がる。


 

 のどかな光景に、ヒズルは感慨を覚える。

 『月の里亭』に似ていて、不思議と懐かしい。

 故郷に帰って来たように、しっくりと記憶に馴染む。


 よく見ると、煙突から薄煙が出ていた。

 家の主が、炉を使っているようだ。

 ヒズルは素早くニワトリを避け、家に辿り着く。


「きゃはっ。ねえ、ワンコたち可愛い!」

 先着のマリーレインは、家の前で犬たちを撫でている。

 白地に黒ブチのダルメシアンのらしい。

 人懐っこいが、狩猟犬なのだろうか?

 家の裏にも小屋が見えるが――中はカラのようだ。


 ヒズルは初めて見る犬に尻込みしていると――家のドアが開いた。

 出て来たのは、三十代半ばほどの外見の男性だった。

 

 暗めの栗色の髪を、無造作に肩に垂らしている。

 上は、白シャツに濃茶色の膝丈チュニック。

 下は、灰色の下履きブレーにブーツ。

 質素な服装だが、汚れや敗れは見えない。

 日焼けをしていない肌、薄青い瞳、何より卑屈ならざる雰囲気は、農民とは一線を画している。



「……君か」

 男性はバシュラールを眺め、低めの声で呟いた。

「いや……今は『バシュラール』か。ようやく『名』を得たか……」


 その言葉に、ヒズルは目を見張る。

 男性はヒズルに視線を移し――微笑んだ。

 それは、深い自嘲のようにも見えた。

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