5話 お帰りなさい
薄く瞼を開けると、頭上には明けの薄闇が佇んでいる。
月は姿を隠し、彼方の稜線に陽の片鱗が手を掛ける。
視線を下ろすと、焚火の細い炎が揺れている。
大気に満ちる花の香には、すっかり慣れた。
生まれた街の腐臭を払うように、その香を引き連れて彼は現れた。
街と共に腐臭は消え、彼と共に花の香の中で生きている――。
ヒズルは腕の下に『
これを体から遠ざければ、命を失う。
けれど、バシュラールが守ってくれている。
だから、安心して旅が出来る。
その終点は、分からない。
バシュラールが、何をしているか――
何をしてきたかは分かっているけれど――。
ヒズルは上半身を起こし、隣を見た。
マリーレインの無防備な寝顔が目に入る。
二つに結わえた髪は、クルクルと巻き上げて纏めている。
彼女が広げたショートジャーキンに包まり、二人で並んで眠った。
自己生成しているジャーキンは、大きな一枚布に変形したのだ。
今まではバシュラールの黒マントに包まり、独りで寝ていた。
たまに目覚めると、バシュラールは焚火の前に不動で座っていた。
彼も、マリーレインのように眠る時はあるのだろうか――
ヒズルは『
『
頁の白い地色が淡く光るからだ。
昨日は、『女神さま』の御姿を描いた口絵が増えた。
頁が増えたことは前にもある。
『月の里亭』に関する部分だ。
最初は二頁しかなく、闇夜の『月の里亭』の外観と、修道士の絵のみだった。
後にこの絵について訊ねると、バシュラールは包み隠さず話してくれた――。
その日の夕刻に、絵と記述が増えた。
『月の里亭』の外観がはっきり描かれ、修道士の顔も鮮明に描かれた。
とても優しそうな初老の男性の顔だ。
それが、バシュラールが見た顔なのかは分からないが――
絵の下には、「月の里の『
自分の額に触れた手の主は、この方だ。
そして追加されたのは四頁。
『月の里亭』の一階の広間、賭け事に熱中する男たち、宿屋の亭主夫妻と使用人と女中、自分たちが泊まった部屋、そして宿屋の俯瞰図。
そこにはパン焼き窯や貯蔵庫、厩に馬車の絵も描かれている。
これらの絵と文章に加え、過去の出来事も追記された。
――それは、突然に訪れた。
裂けた空から、三百六十五の『死の眷者』が降り立った。
風は渦巻き、水は黒く濁り、火が大地を覆った。
宿屋『月の里亭』も、半分が崩れ落ちた。
残っていた五十七名も、九日後には全員が命を落とした。
『ロセッティ』は、彼らの魂を繋ぎ止め、生かし続けた――
ヒズルは、『ロセッティ』と宿屋の人々の惨禍に心を痛め――祈る。
だが、疑問はある。
『テオドラ』は「そなたが見たもの。聞いたことが記される」と言った。
けれど、記述された厄災については聞いたことはない。
では、この記述は誰の記憶だろうか?
考えつつ、装飾文字の一文の数字に目を留める。
(三百六十五……)
それは、間違いなく『アンクウ』たちの数だろう。
思わず、マリーレインの無邪気な寝顔を見てしまう。
バシュラールも彼女もイセルテも、その中に含まれているに違いない……。
しかし、視線を感じたのか――彼女は薄目を開け、バッと起き上がった。
眠そうな顔でこちらを見て、目を擦る。
「……おあよ……もう起きちゃった…?」
「はい。あの……まだ寝てていいですよ」
ヒズルは慌てて目を背け、『
マリーレインの上半身の絵と、昨夜の夕食の絵が追加されていた。
串に刺した焼き魚とキノコ、野イチゴ、煮沸した水を注いだ二つのコップ。
絵の端に『ふたりの初めての夕食』と細字で落書きがある。
ヒズルは頬を緩め、その絵に見入る。
すると――風が柔らかく渦巻いた。
その優しい気配に顔を上げ、振り向く。
少し後ろに、バシュラールが立っていた。
けれど――揺れる彼の髪は胸より下の位置で断たれている。
意味を瞬時に悟ったヒズルの表情は固まる。
彼は、仲間に会うと言ったけれど……
「バシュラール……」
ヒズルの唇が、弱く開く。
こうも短く髪を断った彼に衝撃を受けた。
それは、武器を何度か生成したからではないのか?
闘うべき強敵が居て、万一を危惧して、マリーレインを呼んだのでは……
「バシュラール…!」
ヒズルは立ち、叫び、『
バシュラールに身をぶつけ、胸に頬を寄せる。
「……お帰り……」
鼻を啜り、ささやいた。
大切な人は、何も言わずに発った。
そして、帰って来てくれた。
その人の思惑は分からない。
けれど、一緒に居たい――。
「……すっかり懐かれちゃってるね」
重なる影を見つめ、マリーレインは両の人差し指で頬をツンツンする。
「……髪が伸びるまで、お姉さんがお供してあげますか」
――稜線の奥から、茜色の太陽が昇る。
雲が黄色に染まり、鳥の群れが空を横切る。
短い夜は終わり、また『
† 次章に続く †
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