あぁ、クソ。まただ。

「すいません、こんな遅くに何度も押しかけて。でも、どうしても昼間のお礼をしたくて」


 そう言って、彼女は紙袋を少し上に上げ、これです。と葉に見せる。


「昼間、虎目さんのお店で貰った鯖で作った『鯖の味噌煮』です。引っ越したばっかりでお皿が見つからなくて、こんなボウルに入れてお渡しになりますが、良かったらと思って」


『昼間のお礼…もしかして、道案内しただけなのにわざわざ作ってくれたのか?』


 葉はそれを笑顔で受け取る。

 そして、彼も礼をいう。


「こちらこそ、ありがとうございます。道案内してこんな美味しそうなもの貰えるなら、何回だってしますよ」


「ふふっ。葉さんったら。でも、私の作ってきたお料理、葉さんの今日のお夕飯と合わないかもしれませんね…」


 葉はえっ?と言う。

 彼女は少し困った顔をして、自分の鼻頭に指を人差し指を軽くさす。


「この匂い。葉さん、今日のお夕飯カレー?ですよね。私、和食を持ってきてしまいました。ごめんなさい…」


 葉は少しクラッとする。


『また、下ごしらえの段階でここまで匂っていたという事は連日のカレー三昧で、匂いがのこっているって事か…。明日、絶対消臭しよう』


 葉は心の中で決心すると、瑠璃に向かって言う。


「だ、大丈夫です。ここ最近、何故かカレーを作る事が多くて、別のもの食べたいなーって思っていましたから!これはこれで美味しく頂きます」


 それを聞いて、瑠璃は微笑む。


「良かった。迷惑にならなくて。それにしても、葉さん、お料理されるのですね!素敵です」


 突然、瑠璃から褒められて、葉はちょっと恥ずかしくなる。

 ましてや、自分の得意な事で好きな事だ。

 嬉しくないわけが無い。


「しゅ、趣味みたいなものですよ。良かったら、この鯖のお礼に今度好きなものお作りしますよ」


「ほんとですか。楽しみにしています」


 瑠璃は笑う。葉はそれを見て、 あぁ、今日道案内してほんとに良かった。と心の底から思った。


『とは言え、貰うだけも何か悪いから、簡単なものでお礼しておくか?』


「あの?夢見さんって好きなものあります?あと、嫌いなもの。今度、料理を作る時の参考にしたいので…」


瑠璃は少し考え、言う。


「好きなものは『お茶』です。緑茶、紅茶、焙じ茶…何でも飲めますし、全部好きです。苦手なものは…食べ物では特に無いです」


「そっか、良かった」


 と言って、葉はある事を思い出す。


「そう言えば、大家さんからこの間、緑茶の茶葉を貰ったけど、俺だけだと飲みきれないから、瑠璃さんに差し上げます」


 瑠璃はそれを聞いて、ちょっと喜ぶがすぐに申し訳無さそうに断る。


「そ、そんな悪いです。道案内のお礼がしたくてお訪ねしたのに、逆に頂きものをするなんて」


「良いですよ。それに美味しく飲んで貰う人に渡った方がお茶も幸せです。ちょっと、持ってきますね」


 そう言って、葉は紙袋を持ってキッチンに向かう。


 ガサッ


 銀のボウルに入った鯖の味噌煮が出てきた。


 …ゴク


 葉の喉が少し鳴る。


『美味そう…。えっ、もしかして瑠璃さんって料理も上手いの?超素敵女子じゃん』


 葉は今すぐこれを食べたかったが、それを我慢し、冷蔵庫に鯖の味噌煮を入れ台所からある缶を取り出す。


 それは緑色をした缶。美世から貰ったお茶の缶である。


『これ、貰って飲んだけど、凄く美味かったよなぁ。俺、急須を洗うのが面倒だから、結局、ちょっとしか飲んで無いけど…』


 恐らく高いだろうなぁ。と葉は思った。

 ちなみに美世からこれを五つくらい貰ったが、葉はまだ一缶も消費していなかった。

 その中で一番綺麗なものを取り上げ、葉は玄関に向かう。


「ごめんなさい。遅くなって、このお茶ですが…」


 ガランッ!


 葉は目の前の光景に驚き、思わず缶を落とす。


「夢見さん!」


 彼の目に見えたのは、具合が悪そうな顔をして、左肩と左腕を玄関の壁に当て、体勢を維持している瑠璃だった。


「よう、さ、ん?」


 瑠璃の言葉は途切れ途切れだった。目も少し虚ろに見えた。

 さっきまで元気だった彼女にこんな短時間の間に何があったのか?葉は不思議でしょうがなかったが、今はそれどころでは無い。

 慌てて、彼女に近づく。


「瑠璃さん!大丈夫ですか?」


 瑠璃は良く見ると、顔が真っ青だった。

 顔に汗もかいており、呼吸も荒く、酷い風邪をひいている様だった。


「ッ俺、救急車呼びます!」


 葉がスマホを取り出すと、彼女は葉の服の裾をクイッと掴む。

 葉は驚いて、彼女を見る。


「救急車はダメ、です。呼んでも、何も、出来ないから…」


 『呼んでも無駄?どういう事だ?』


 葉が悩んでいると、彼女は苦しそうにそれでも彼に心配かけまいと少し笑う。


「私なら、大丈夫です。ちょっとだけ、葉さんのお部屋の壁をかして下さい…」


『こんな時でも人の心配…。クソッ!何かこの人為に出来る事は無いのか?』


 葉が悩んでいると、


 グラッ


 遂に彼女の体勢維持に限界がきた。


「夢見さん!」


 葉は慌てて彼女を支えようとするがとっさの事だったので、体勢を維持できずそのまま二人は部屋の廊下に一緒に倒れる。

 瑠璃は葉の体を下敷きにそのまま、うつ伏せに倒れ、はぁはぁと荒い呼吸をしている。体調の悪さは前回よりも酷く見えた。


 そして、葉は葉はで前回よりもマズイ状況に混乱していた。


『いやいや、いや!ヤバい、ヤバい、ヤバい!これ、前回よりも大変な事になっている!』


 葉は首を動かさず、視線のみ動かして横を見る。

 横には顔色は悪いが、瑠璃の美しい顔が見える。

 葉は慌てて視線を天井に戻す。


『いや、近い!可愛い!じゃなくて!これどうしよう。起こしてあげたいけど、何故か俺も体を動かせない!』


 葉は本心では体を動かさず、このままでいたかったが、彼もなんやかんやで常識人ではある為、瑠璃を自分のベッドに寝かせようと体を起こそうとしても何故か体が動かなかった。


 正確に言うと


 瑠璃が倒れて、それを支えた瞬間、彼は一気に何かに力を抜かれたみたいになり、そのまま一緒に倒れこんでしまった。

 しかし、倒れて気絶できなかったのが、彼の幸運でもあり、不幸でもあった。


 一緒に倒れこんだせいで葉は前回と違い、思いっきり、瑠璃の体の下敷きになっている。

 彼の顔のすぐ左側には瑠璃の顔があり、視線を動かすとすぐに見える位置にあった。

 そして、耳元では少しずつ落ち着いて来ているものの、彼女の荒い呼吸が聞こえる。しかも、前回と違い距離が近い。

 彼女からは相変わらず、良い香りがしており、これもまた葉の理性をおかしくする要因となっている。そしてまた、これも前回と違い距離が近い。

 そして、瑠璃の形が綺麗な双丘は今、葉の胸部にある。その感触の破壊力は葉の予想以上だった。

 彼は空前絶後ラッキースケベアワーになってから顔から汗がダラダラと出続けていた。


『むっ、胸の感触が…。耳元に夢見さんの吐息が…。しかも、ほんとにこの人良い香りがする。夢見さんの容態を確認したいけど、ドキドキしすぎてそれもできん。何この蛇の生殺し状態。誰か来て欲しいけど、このままでもいたい。あぁ、もう何か泣きそう…』


 葉の頭の中はグルグルと色んな思考が切り替わっていく。

 それでも、ただ一つはっきりしている事はあった。


『…でも、彼女をこのままに出来ない。何とか起き上がれ、俺』


 葉は何度も体に力を入れようとするが体は言うことを聞かなかった。


『何だ、これ!?感覚はあるのに、体に力だけ入らない。瑠璃さんを何とかしなきゃいけないのに』


 葉は何度何度も試してみるが一向に体に力が入らない。

 それどころか、徐々に眠くなってくる。


『ヤバイ!今、意識が飛んだら夢見さんを助ける人が!寝るな、俺!大学の講義の眠気に耐えたのはこの日為?だろ!』


 葉が固い意志に反して、体はどんどん無気力になっていく。そして、


『ヤバい、もう意識…夢…見さ…』


 彼が眠りに落ちる寸前に


「ッゴメンなさい!」


 瑠璃が葉から慌てて離れ、


 ガツン!

「はぎゃん!」


 葉の家の下駄箱に頭をぶつけ、とてもユニークな悲鳴を上げ、頭を抱えてその場にうずくまる。

 葉はそれを動かせない体で見ながら、可愛いなぁ。思っていた。


「…本当にごめんなさい。迷惑ですよね、私」


「…夢見さん?」


 彼女の声は震えていた。

 いつもの大人っぽい感じは消えかけており、葉より一つ、二つ小さく見える女の子の様だった。


「本当はわかっていたのかも、知れません。私がここにくる事で、だれかにっ、めいわくを、かけ、るかもって…」


 彼女は泣いていた。

 葉は少しずつ元気を取り戻して来た体を起こそうと試みるがなかなか体勢を戻せない。


『何やってるんだ、俺!?目の前に困っている人がいるのに、何も、できない…』


 泣いている女の子。

 それに対して何も出来なかった自分。

 あの時の光景と今は、少し似ていた。


「葉さん、ごめんなさい。貴方に甘えてばっかりで。ここにはもう来ません。本当に、ありがとうございました!」


「夢見さん!待って!」


 彼女は立ち上がって、葉の前から去ろうとする。

 去り際に彼女の顔が見えた。


 瑠璃の顔は目が真っ赤にして、涙を浮かべ、そこにいたのは大人の女性ではなく、


 悔し涙を流す女の子だった。




 しばらくすると葉の体は少しずつ動く様になり、彼は右手を天井向けて伸ばし、そのまま、右腕で自分の目元を隠す。


『あぁ、クソ。まただ。俺はいつも泣いている女の子の前で何も出来ない。姉貴にあれだけ王子様を教えてもらったのに』


 彼は、はっ。と自分を嘲笑する。


 外は暗くなっていた。

 葉の体はもうとっくに動かせるのに、彼はその場から動こうとはしなかった。

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