これ、お守りとして貰っていって良いですか?

「んあ、朝か…」


 葉はふぁー。と欠伸をして、頭をかく。そして、いつも通りシャワーを浴び、服を着て、身だしなみのチェックをした後、適当な容器に昨日作ったカレーを入れ、それにシールを貼り、『湖太郎の分』『マスターの分』と書いてカレーを分ける。

 カレーを詰める作業をしながら、彼は今日のスケジュールを頭の中で確認する。


『今日は午後に講義があったけど、まだ時間あるからゆっくり学校に向かえば良いか。その後はバイト先に向かって、カレーを渡して、そのままバイトするか…』


 と彼が色々考えている内にカレーを詰める作業、鍋を洗う作業が終わり、彼は容器を鞄に詰め部屋の扉を開け、外に出る。


 外はここ最近、ずっと晴天。朝日が眩しい。

 すると、横から「あっ、葉さん」と声が聞こえる。

 横を見るとそこにいたのは、お隣さんでとびきりの美女。夢見瑠璃だった。


「あっ、夢見さん。おはようございます」


「はい。おはようございます。でも、って呼ばなくて良いですよ。呼びづらくないですか、この苗字?」


 葉は突然の提案にちょっと驚く。


『ええっ!ではと呼べと!?そりゃ、こんな美人を名前で呼べたら、そうとう嬉しいが…』


 葉はしばらく考えこう言った。


「いや、さすがに名前呼びはちょっと恥ずかしいです。夢見さんでお願いします…」


 王子様状態なら間違いなくそのまま名前で呼んでいたが、どうもこの人の前だと使いづらいよなー。と葉は心の中で肝心な時に現れない王子様を後悔した。


 瑠璃は「そうですか?なら、それでお願いします」と笑顔で答えた。


 相変わらずの色っぽい笑顔。

 葉は朝からちょっとドキッとする。朝の陽ざしの効果で、その笑顔はより一層美しくなっていたからだ。

 そして、そんな彼女から葉に質問が飛んで来た。


「そういえば、葉さん。その、昨日、何か変な体験とかしましたか…?」


「変な体験?あぁ、そう言えばそうですね…」


『確か甘い臭いを嗅いで欲…』


 と思い口を開きかけた葉は思考と行動をストップさせ、一旦冷静になる。


『いやいや、マズイマズイ!昨日の甘い香りの事を話せば変態扱いだぞ、俺!とはいうもののなんかあったような態度をとってしまったし、ここはどう誤魔化すか…』


 瑠璃は少し困った顔をして葉を見つめる。葉は途中まで口を開きかけてしまった為、簡単に誤魔化すのは困難だな。と思った。

 そして、彼は少し考えると、突然、頭の中で電球が光った。


「と、鳥がたくさん飛んできて慌ててベランダを閉めました」


 それを聞いて彼女は少し驚く。


「鳥…。あぁ、確かにいっぱいいましたね!理由は良くわからないけど…。はっ!もしかして、葉さんその鳥が原因で怪我したりしませんでした?」


「あっ、いえ。特に怪我はなかったですよ。ただ、驚きはしましたけど…」


 何故か彼女は昨日の不思議な出来事について聞いてくる。


『もしかして、昨日の香りは夢見さんが…?いや、ないだろ。確かにこの人良い香りするけど昨日のものとはもっと別の…』


 葉が思考を巡らせていると彼女はそれなら良かった。と言ってほっとした顔をする。


「私の方にもたくさん飛んできて、怖かったから、葉さんも同じ目にあって怪我していたらやだなって思って…。でも、何もなくて良かった」


「い、いえ心配して頂き、ありがとうございます。そういえば夢見さんは今日もスーツ姿ですが、仕事ですか?」


 瑠璃は自分の姿を見て、あぁ、これですね…。と言ってちょっと考える。


 そう。今日も彼女の服装は、上は白のワイシャツ、下は黒のスカートスーツ姿だった。

 相変わらず、白のワイシャツは胸元のボタンが悲鳴を上げており、いまにも弾けそうだった。


 しかし、今は夏。最近は少し冷夏のためそこまで気温は高くないが、彼女が毎回長袖のワイシャツを着ている事に葉は疑問を持った。

 葉が質問しようとしたその時、


「に、入社前なんです、私。だから、今慣れないスーツを着て早めに馴染もうかなって…」


「あぁ、なるほど。確かに俺も大学の入学式で来ましたけど、ちょっと普通の服と違うから馴染むまで時間かかりますよね」


 そうですよね。と瑠璃は笑う。


『なるほど、社会人かー。うらやましいな。こんな美女が入る会社ならガンガン仕事するわ…』


 葉は大学生の自分と社会人の瑠璃にちょっと壁を感じ、少しがっかりする。


『こんな大人の女性、社会にでたら引く手数多だろうな…』


 葉はちょっと前まで『男女のいざこざは面倒』と思っていたが、目の前の素敵な美女が誰かの手をつなぐと思うと寂しい気もした。

 しかし、彼はすぐに


『まぁ、万が一俺が夢見さんの恋人になれたとしても、不幸にするだけだからな…』


 と自分の浮かれた感情をしまい込む。彼は気持ちを切り替え、彼女に言った。


「だったら、この辺りの事でわからないことがあったら言って下さい。俺、力になりますから」


 それを聞いて、彼女は笑顔になる。


『あっ、またこの笑顔…』


 それは最初の出会いの時、彼女が名前を告げた時の笑顔。

 艶やかでなく、美しく可愛らしい花が咲くような笑顔。

 その顔で瑠璃は言った。


「はい!ありがとうございます!葉さん!」




 葉と瑠璃はアパートの階段を一緒に降り、葉は自転車をいつも場所から引き出し、そのまま瑠璃とはアパートの前で別れる事になった。


「じゃあ、俺学校に行くので、ここで」


 と彼が後ろを向き、自転車をこぎかけたその時


「あっ、葉さん、待って…」


 彼女が呼び止める。

 なんですか?と彼が振り向いた時、彼女は葉に近づき、右手を彼の肩に向け伸ばし、何かを取り上げる。


 それは緑の葉っぱだった。恐らく先程の自転車を引き出す時についたのだろう。


 彼女はそれを口の前に持ってきて、悪戯っぽい目で彼を見て、はにかんだ笑顔で少し恥ずかしそうに言った。


「見てください。葉さんから可愛い葉っぱが取れました!今日の私のラッキーカラーです。この緑色。これ、お守りとして貰っていって良いですか?」


 葉は無言で頷く。

 彼女はそれを見て、ありがとうございます!と言って軽く頭を下げ、クルリと回って葉とは反対方向を歩き出す。

 葉はそれを無言で見送っていた。


 不思議な人だ。と葉は思った。

 大人っぽい雰囲気を出してはいるものの、時折、年下のような行動をとる。

 時々、わざとやっているのか?と考えるが、そう心の片隅で思っていても葉は振り回されていた。


 彼女に会ってからというもの、彼は自分のペースを崩され続けていた。

 彼の姉が見たら、この軟弱者!女の子に振り回されてどうする!と言われそうだが、それでも、無理だった。


 彼もかつては王子様を演じていたとはいえ、魅力的な女性の前では所詮なのだ。


「いや…夢見さんの笑顔であれをやるのは反則だろう」


 彼は不覚にも少しときめいていた。






「あら、葉ちゃん。おはよう」


 葉はビクッとなって後ろを振り向く。

 そこにいたのは、綺麗な白い髪を持つ女性。

 葉には見知った人だった。


「あぁ、月長さん。おはようございます」


 彼女は葉の挨拶を聞いて優しく微笑んだ。


「ワンッ!」


 彼女の足元にいた、ちょっと太った黒柴犬が鳴く。

 その黒い毛並みは艶があった。


「おぉ、ジェットもおはよう。月長さん…撫でても良いですか?」


「えぇ、もちろん。ジェット、おすわり」


 それを聴くと、ジェットはピシッとおすわりして、葉を見つめる。

 葉は優しくその黒柴の頭を撫で始めた。


 モフモフ…


「あぁ、幸せ…。陽の光を浴びているおかげで、ちょっとあったかい…」


 ジェットはへっへっと舌を出しながら、葉のナデナデを大人しく受けている。

 出来た子だった。


「この子、臆病であんまり人に懐かないのに葉ちゃんが撫でている時は大人しいのよね。あっ、そう言えば昨日来た、葉ちゃんの家のお隣さん。その時もこの子、大人しく撫でられていたわ。撫でている時、とっても幸せそうだったからワンちゃん好きの優しい人なのね」


「えっ?夢見さんが?」


 月長さんの言う通り、ジェットは臆病で知らない人が来るとすぐに飼い主の月長さんの後ろに隠れる。

 葉も慣れて貰うまでには結構かかったのだが、今はこうして仲良しになっている。


「あら、葉ちゃん。もうお知り合いになったの?そうよね。あんな可愛い女の子だもの。男の子は気になるわよね」


 月長さんはのんびりとした口調で瑠璃を褒める。

 それを聞いて、葉は答えた。


「いやいや、月長さんもお綺麗ですよ。前にジェットと散歩している姿見かけた時、絵になっていましたし」


「あらあら、お上手。葉ちゃん、ありがとう」


 葉の言っていることはお世辞も入っているが、事実でもある。


 葉の住んでいるアパート、『ピローコーポ』の大家『月長美世つきながみよ』は六十代とは思えないほど綺麗な女性だった。

 彼女の髪は遠目から見ると、白いが近くで見ると白銀の色をしていた。


 彼女はこの小さなアパートの管理人をしているが、その正体はとんでもない金持ちの奥様だ。

 彼の夫はもう故人であるが、名を『月長善次郎つきながぜんじろう』という。

 彼は土地と賃貸を管理する不動産を経営しており、都心のバカに金額が高いマンションやビルはだいたい彼がオーナーだった。


 そのうえ、彼女自身も今はお茶や着物の先生などをしており落ち着いているが、若い頃は現役バリバリの舞台女優でそれはもう、とてつもなく美しかったという。

 前に一度、葉も彼女の若い頃の写真を見させて貰ったが、それは一枚の絵画を見ているような美しさであり、思わず「女神ヴィーナス!?」と叫んでしまったほどである。


「そう言えば、葉ちゃん。昨日、ちょっと変わった事があったの。聞いてもらえるかしら?」


 葉はジェットの肉球をプニプニと優しく触りながら頷く。


「昨日、ジェットの夜の散歩から帰って来たら、たくさんのワンちゃんがこのアパートの前にいたのよ。たくさんいるわねー。と思っていたけど、妙な事に全部オスのワンちゃんだったのよ。ジェット、女の子だからビクビクしちゃうし、仕方ないから裏口から入っていって家の中から様子を見ようとしたら、何も無かったかの様にパッタリといなくなっていたのよね…。今日、その子たちの粗相の後始末やジェットがその匂いに怯えて大変だったのよ」


「えぇ、そんな事があったんですか。大変でしたね…。ジェットもお疲れー」


『たくさんのオスの犬か…。そう言えば、昨日、俺と瑠璃さんの所にもたくさんの鳥がきたような…まぁ、関係無いか』


 葉はまたジェットの頭を撫でる。

 ジェットは撫でられてない方の葉の手をペロペロ舐め、ワンッと答える。

 その様子を見て、美世は、ふふっ。と笑う。


「ワンちゃん版のマタタビでもあるのかしらね?ちょっと不思議な体験だったわ」


 美世はのんびりと優しそうな口調で言う。葉は美世のこういう性格が好きだった。

 毎日の小さな変化を感じ、犬とのんびり楽しく生きる。そういう生活を葉も年をとったらしてみたいと思った。美世はある意味、葉の人生の小さな目標を地で行く人だった。


 そして、美世も自分の愛犬が好いている、この気の良い青年が好きだった。

 ジェットは本当に臆病で他人がくるとずっと美世の後ろに隠れている箱入り娘だった。そして、それは男の人だと尚更警戒する。

 しかし、彼は持ち前の優しさで犬と同じ高さまでしゃがんで毎日挨拶し、遂にお姫様は頭を触る事を許してくれたのだ。

 以降、彼女とジェットはこの青年に会うと挨拶を交わすのが、習慣になっている。


 そして、その交流は葉に想わぬ幸運を呼び寄せる事がある。

 それは今日やってきた。


「あっ、そう言えば葉ちゃん!ねぇ、この写真見て」


 彼女はスマホを取り出すと、一枚の写真を見せてきた。


 そこにはふくよかな男性が写っていて、彼は両手で大皿を持っており、そこには美味しそうな豚肉の生肉がのせてあった。


「わー、美味そうな豚肉。しかも、高そうですね…」


「この人、夫の知り合いでね。今でもこうして連絡をしてくれるの。この写真は『年の豚肉が良い出来です。見てください!』って連絡きたの。なんでも、ジェットと一緒の毛の色をした黒毛の豚さんらしいわね」


 ねぇー、ジェット。と美世が言うと、ジェットはワンッと返事をする。


『黒毛の豚…?それって確かかなり高額の豚肉じゃ…。さすが、金持ちの食べ物は桁が違うな…』


 葉は庶民とセレブの違いを肌身で感じ、少し凹んだが美世の次のセリフでその悲しみはどこかに吹っ飛んで行った。


「でね。この人から昨日、その黒い毛の豚さんの肉が届いたのだけど、私、ジェット以外家族いないじゃない?だから、届いた量が多すぎて勿体無いから葉ちゃん、貰ってくれない?」


「…マジすか!」


『黒い毛の豚肉なんか次にいつ食えるか?いや、もう一生無いかもしれない!』


 葉は突然降ってきた幸運を神、いや美世様に感謝し、心の中で何度もガッツポーズをし、そして、喜びを隠せない表情で美世にある提案をする。


「こんなに高いもの簡単には受け取れません!何かお礼をさせて下さい!」


「あら、悪いわね。ふふっ。ごめんなさい。言い方を間違えたわ。


 そう、葉は美世から何か頂く時は彼の得意な方法でお返しする。


 つまり『料理』だ。


 美世も料理自体は得意で嫌いでも無いのだが、「葉ちゃんの味付けが私好みなのよね」と言って、いつも美味しく頂いているらしい。


 彼の料理のファンは地味に多く、美世もその内の一人だった。


「じゃあ、せっかくだからお願いしようかな。そうねぇ、何をリクエストしようかしら…?」


「任せて下さい!なんだって作りますよ!」


 葉は自信満々に言う。

 しかし、何だって作ります!と言った事を彼は数秒後に後悔する。


「そうねぇ、昨日は和食だったから、それ以外が良いわ」


「ふむふむ、和食以外と…」


「あとはねぇ、あのお肉焼いても美味しそうだけど、今日はちょっと柔らかい方が良いのよね」


「あー、なるほど。肉を柔らかくした方レシピと」


 彼女は少し、楽しなってきて声が明るくなってきている。


「でねでね、今日も暑くなりそうだから、私の辛いものが食べたいの」


「そうですか、辛いもの…辛い、もの?」


 葉はこの時点でいやーな予感がしはじめた。

 しかし、まだ諦める時間では無いと感じ、彼女へのヒヤリングを続ける。


「あっ、そうだ。葉ちゃん、この間作ってくれたアレ。あの時はお野菜で作ってくれたけど、アレ凄く美味しかったわ!今度はこのお肉で食べたいな、アレ」


 葉は思い出す。

 そうちょっと前に美世から大量のナスとアスパラを貰った時、彼はある料理に変身させ、お返しした。

 それは彼の得意料理…


「また、作って貰えない?葉ちゃんの!」


 …オゥフ。葉は心の中で項垂れる。


 しかし、目の前には目をキラキラさせた美世と純粋無垢な視線で彼を見上げるジェット。


 こんな目で見つめられたら彼は爽やかな笑顔でこう答えるしか無かった。


「シェフカネキにお任せ下さい!」






「はぁ…」


 高級な豚肉が食べられる喜びと今日もまたカレーを食べなければいけない悲しみを同時に味わい、葉は疲労していた。


「なんか嬉しいと悲しいが同時にくると人間って疲れるのな…」


 葉はとぼとぼと駅に向かう。講義開始までまだ時間がある。


『公園で時間潰して、昼飯にしようかな…?』


 と葉が思っていた時だった


『アレ?あの人って』


 公園のトイレから出てきた一人の女性。


 それはちょっと前に会話を交わした女性。


「夢見さん!」


「えっ!よ、葉さん!?」


 夢見瑠璃だった。






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