この美世さんを甘く見てはダメよ。

「ワンッ!」


 ジムでトレーニングを終えた二人がピローコーポの前に着くと、そこにはツヤツヤの毛並みの黒柴が尻尾をぶんぶん振ってお出迎えしてくれた。


「あー、ジェット!こんばんはー!モフモフー」


 瑠璃は小さなお姫様が見えた途端、彼女の前までトテトテと駆け出し、その場にしゃがみ込み、優しく抱きしめ、顔をそのモフモフの毛に埋める。

 今日の彼女の服はジム用のウィンドブレーカーなのと、すでに一度、葉の前で本性を見せている為、以前の様な遠慮は1ミリも無かった。


「あら、瑠璃ちゃん。こんばんは」


「はい。美世さん、こんばんは。あっ、すいません。お姫様に許可も無く抱きついて…」


「良いのよ、気にしないで。ウチの子なんて、二人を見かけた時点で何も言わずにお座りしたのよ?それだけで、私はもうオーケーなのよ」


 そう言って優しく微笑む美世を見て、瑠璃はありがとうございます。と軽くお辞儀をしてまた彼女の体に顔を埋めた。


『瑠璃さん、凄いな。ジェットだけで無く、月長さんも名前で呼び合う仲になって…。この人、本当に男性が苦手なだけで元々コミュニケーション能力高いんじゃないか?』


 葉は改めて瑠璃の人間関係構築能力に感心した。

 当の本人はまさか褒められているなどと全く思わず、黒い毛のお姫様に顔をベロベロ舐められて、にへーと幸せそうな顔をしている

「そう言えは、葉ちゃん。今年は花火大会行くの?」


「あっ、そうですね。今回は…行きたいと思います」


「あら、そうなの!良かったぁ。今回はもしかしたら…と思って聞いてみたけど、美世さんの感が当たったわね」


 ふふ。と美世は軽く微笑む。実年齢よりも何倍も若く見える悪戯っぽい笑顔に流石の葉も照れを隠せなかった。

 瑠璃は頬をワンコにペロペロ舐められながら、その様子を怪訝そうな顔で見ており、それに気づいた美世がその答えを教えてくれた。


「瑠璃ちゃんは知っているかもしれないけど、私、葉ちゃんにいつもお世話になっているでしょ?だから、せっかくの花火大会、葉ちゃんには目一杯花火を楽しんで貰いたくって…」


「じゃーん」


 と美世は楽しそうに、小さな紙を取り出す。それは何かのチケットであり、花火の絵が印刷してあった。


「この花火大会の特等席のチケットを毎年、プレゼントしているのよ」


「えぇ!凄いですね!」


 瑠璃はワンコを抱きしめたまま驚く。

 美世は、ふふ。と笑った後、少しだけ困ったように右手を頬に当て、言葉を紡ぐ。


「でも、葉ちゃん毎回忙しいみたいでいつも他の人にプレゼントしているのよ。もちろん、葉ちゃんがそれで嬉しいなら私も大賛成だけど…やっぱり、私はお世話になって葉ちゃんにも喜んで貰いたいなぁって」


「わぁー、凄いですね。葉さん、せっかくの美世さんのプレゼントですよ。これは受け取らないと!」


 瑠璃は自分へのプレゼントでは無いという事はわかっているはずなのに、それでも自分の事のように大喜びしていた。

 そして、葉もそんな彼女をほっといて自分だけ楽しめるわけもなく…


「あー、月長さん。いつも本当にありがとうございます。でも、今回は俺一人で行くわけでは無いです。だから、俺だけそんなに良い席を貰っても…」


「ふっふっふっ。葉ちゃん。この美世さんを甘く見てはダメよ。私が葉ちゃんみたいな良い子がで無いことは良く知っているわ。だからね!」


 バラッ


 葉と瑠璃の目の前にあったチケットはいきなり複数枚に増え、合計六枚。最初に見たチケットは、その内の一番上が見えていただけだった。


「もちろん、瑠璃ちゃん。そして、お友達の分もあるわ。足りなければ、そうね、後十枚は用意できるわ!」


「ワンッ!」


 ご主人のテンションが上がっている事を察して、ジェットも吠える。

 瑠璃は目をキラキラさせてチケットを見ていた。


「凄いです!美世さん。葉さんのな性格を察して、こんな包囲網を敷いているなんて!これで葉さんはもう断れないですね!」


「えぇ、瑠璃ちゃん。もうここまで来たら今回は嫌が応でもこのチケットを使って貰って、葉ちゃん達に最高の席で至福の一時を過ごしてもらうわ!」


「えへへへへ」

「ふふふふふ」

「ワンッ!ワンッ!」


 二人と一匹の女性の妙なテンションについていけず、肝心の葉はもはや蚊帳の外だった。



「そう言えば、瑠璃ちゃん。あなた、花火大会の時は何着ていくの?」


 急な美世の質問に対して、瑠璃はジェットの涎に塗れた顔を拭きながら答えた。


「えっ?そうですね。特に決まってはいないです」


「なら、浴衣着ない?私、結構良い生地の浴衣持っているから」


 その言葉を聞いて、ジェットと遊んでいた葉の耳がピクッと動く。

 しかし、瑠璃は彼の予想通り、遠慮する。


「そんな。美世さんみたいなお綺麗な方が着ていたものなんて、勿体なくてお借りする事できないですよ。汚したりしたら大変ですし…」


「あら、瑠璃ちゃん。汚す事なんて気にする必要無いわよ。私、貴方に浴衣あげようと思っているのよ?」


 彼女の突然のプレゼントに瑠璃、そして、思わず葉も目を丸くさせ驚く。


「浴衣を頂く!?そんな、チケットだけでもありがたいのにそこまでして頂くなんて」


「良いのよ、そんな事。それにね、私、お知り合いの方から着物や浴衣とかを良かったら娘さんに…とかお孫さんに…って言われたりして、一杯頂くの。でも、流石に私の家族も『こんなに浴衣要らない』とか言い出してね。捨てるのもねぇ…と思って、今は箪笥の中で眠っているのよ」


「それは、流石に勿体ないですね…」


「でしょう?だから、瑠璃ちゃんみたいに大事にしてくれそうな人に着てもらいたくて。駄目かしら」


 そこまで言われて、瑠璃も、うぅ…。と言い簡単には遠慮できなくなった。

 その反応を見て葉はあと、もうひと押しかな…。と心の中で思う。

 そして、美世も彼と同じ事を考えており、トドメの一言が入る。


「うーん、瑠璃ちゃんに着てもらえないなら、そうねぇ、他の方にあげる機会も無いし、勿体無いけどわねぇ…」


『あっ、月長さん、流石。その一言は瑠璃さんにクリーンヒットだ』


 先程の葉と同じような『瑠璃に浴衣を着せる包囲網』が美世の一言によって完成し、それを聞いた彼女はやっと折れる。


「うぅ…、わかりました!そうですね。勿体無いし、本音を言っちゃうと私も美世さんがお持ちの浴衣ご興味ありますし…、夢見瑠璃、頂きます!」


 少しだけ大きい声で返答する彼女を見て美世は微笑み、ジェットは尻尾を振り、葉は心の中で


『デラシャァァァ!キタァァァ!』


 と叫んだ。

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