あなたには筋肉の女神が微笑みますよ
葉と瑠璃はこのジムのルールとマナーについて勝から説明を受ける。
そのどれもがジムで裸にならない、無駄に奇声をあげない(先程、勝自身があげていたような気もするが…)、使った器具の汗を拭くなど当たり前のものばかりだった。
瑠璃はそんな内容でも一つずつちゃんと目を通し、聞いていたので勝も好印象を抱く。
「いやー、この説明をこんなに真面目に話を聞いてくれる人は久しぶりですよ。どれも当たり前の事ですが、大事な事です。夢見さん!あなたには筋肉の女神が微笑みますよ」
『そんな神、微笑んで貰っても困るけどな…』
と葉は心の中で思う。
そして、二人はこの後、体操できるマットの上で準備運動を始める。
「準備運動ですが、体を伸ばす事よりも体温めるような運動が良いので今から教えますね。まずは腕をこう回して…」
「あのー、葉さん?」
「はい?何ですか?」
「教えて頂けるのはありがたいですが、その…、右手、大丈夫ですか?」
葉の右手は先程のハイタッチもとい勝からの張り手を受け止めて、蜂に刺された様に赤く腫れあがっていた。
その手の痛みは少しずつ引いているものの、浮腫んだ掌は未だに治らない。
「あっ、大丈夫です。割とここに来ると結構な頻度でアレにあたるので」
「えっ!?あんな恐ろしい儀式が何回も有るんですか?」
瑠璃は完全に引いてしまっていた。
葉は瑠璃が儀式と呼ぶ、あの謎の行動について説明する。
「あれ、元々はこのジムの挨拶でちょっと前まではみんなやっていたんですよ。現にこのグループのジムの他店舗では俺も良くしますからね。でも、勝さんが所属するここは彼が、あの挨拶を『気合の張り手祭』にしたので、誰もやらなくなったんです」
「…。でも、葉さんはやっていましたよね?」
「俺も最初は軽いノリで受けて、断れるって事を知らなくて、で、もはや半分意地になり張り手を受け止め続けていたら、掌が丈夫になり、勝さんと仲良くなれました」
葉は遠くを見つめながら思い出す。
あの張り手を始めて受けた日、手に走る激痛で眠れなかった事。そして、次の日のバイトでその手を見て、湖太郎は爆笑、マスターは苦笑していた事を。
「とまぁ、もはや慣れっこなので気にしないで下さい。ただ、今日、右手は使い物になりません。お許し下さい」
「やっぱり葉さんも断った方が良いですよ。あれ…」
準備運動で体を温めた二人は遂に黒い床のコーナーに足を踏み入れる。
瑠璃が入ってきた瞬間、男達は一瞬だけ動作を止めるがまたすぐに自己の鍛錬に励み始める。
『さすがは、己が筋肉を追い込む連中だな…。ここが別の場所だったら、もっと瑠璃さんは注目の的だったが』
葉は瑠璃をチラリと一瞥するが当の本人は重たそうな重りを見て、明らかに、私にできるかなぁ…。という顔をしている。
「えっーと、瑠璃さん。心配しなくても大丈夫です。今日はあの重りは使う予定は無いですから」
「あっ、そうですか。良かったです。でも、葉さん。今日、私はどんなトレーニングするんですか?」
「そうですね…。瑠璃さんは初心者なので、今日は簡単に汗を流すぐらいにしましょう。という事でまずはこれです」
と言って葉は、瑠璃にある器具が置いてある方を指差す。
それは『ベンチプレス』と呼ばれるトレーニングを行うための器具。先程の男達が一つ二十キログラムもする重りをバームクーヘンの様にバーに巻いて使っていた、筋トレと言えばまさにコレと呼ばれる器具だった。
「…無理ですよ」
「いや、重りはつけなくて大丈夫です。実はあれバー自体もある程度、重さがあるんですよ。今日はそれを使ってのトレーニングです。俺も補助するから一緒に頑張りましょう」
瑠璃はバーだけなら…という表情で黙って頷き、葉の教えた通りにバーを持ち上げる体勢になる。
まぁ、バーの重さも初心者にとってはきついんだけど…。と葉は大事な情報をあえて伏せておいた。
「よ、葉さん。はぁはぁ…。だ、ダメ。私、もう、もう無理です…。はぁ…、もう、もう、我慢できない…」
「頑張って、あと一回。あと一回ですよ」
カシャアァァン
瑠璃はバーのみのベンチプレスを何とか十回三セットやり遂げ、項垂れながらベンチの端にちょこんと座る。
「う、嘘つき。はぁはぁ、葉さん、酷い。私、無理って、言ったのに。あんなに無理や―」
「いや!凄いですよ。瑠璃さん。初心者であそこまで頑張れるなんて!」
葉は瑠璃の泣き言の最中に感心の声をねじ込む。
それを聞いた瑠璃は疲労感漂っていたが、少しだけ笑みを浮かべる。
『結構、細腕なのに、本当に凄いな。瑠璃さん。これはマジで筋肉の女神が微笑んでいるかも…。いやでも、それもあるが』
『筋トレしている時の瑠璃さんの声、破壊力ヤバ過ぎだろ…』
筋トレの最中に発せられていた瑠璃の声は女の子の焦りと艶やかさ、そして、後に悲壮感が伝わるような聞くもの感情をいけない気持ちにさせるような、そんな不思議な背徳感を感じるような声だった。
瑠璃のような美女から何度もそんな声が発せられるものだから、己の肉体と精神に向き合う事を生業としているこのコーナーの男達も何度か誘惑に負け、こちらを向いてきたが、その度に葉がジト目をして見ると焦ったようにまた、己に向き合っていた。
『まだ、あの香りは出ていないけど、さすが、サキュバス。声だけであんなに人をいけない気持ちにさせるなんて』
当の本人は筋トレ後の疲労感から燃え尽きたボクサーみたいな格好で項垂れており、自分の声が名も知らぬ男達を魅力していたなんて露ほどにも思っていなかった。
「お疲れ様です。瑠璃さん。ただ、ごめんなさい。今日のトレーニング、実を言うとまだ、考えていたメニューがあるんです」
それを聞いた瑠璃はええっ!?と驚き嘆く。
葉は少し困った顔をして、そんな瑠璃に声をかける。
「でも、瑠璃さんがキツイなら無理にやらなくて大丈夫です。体に無理をしてまでやるようなプロデュースは俺もしたくは無いです」
瑠璃はそれを聞いて、少し下を向いて考えたが、小さな声で
「…ます」
「瑠璃さん?」
瑠璃は疲労感が残る顔で、しかし、笑って見せながら今度はハッキリと言った。
「やります!大丈夫です。せっかく私のプロデューサーが考えてくれたんですから。できる限りは頑張りたいです!」
「瑠璃さん…」
それを聞いて、葉は胸が熱くなるのを感じ、瑠璃に笑顔で言う。
「わかりました。でも、本当に無理ならハッキリ言って下さいね。一緒に頑張りましょう!」
「はい!!頑張ります!」
そう言って二人は笑いあった。
しかし、数十分後に瑠璃はまたあの艶やかな声で『葉さん…ダメッ…!無理です』と言い続け、その度に葉は『まだいけます!ファイト』と変なテンションで筋トレを続け、そして、気づいたら夕方になっていた。
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