ありがとうございます。そして、ごめんなさい

「男の人の手が、怖い…」


 その言葉を聞いて葉は絶望する。それは彼が最も恐れていた事だった。


 瑠璃の夢を叶える為には、まずは男性に対する不信感や警戒心を少しずつ解いてあげる必要があった。

 その為に葉も自分なりにプランを作成し、瑠璃もそれを頑張ってきた。


 だから、このまま頑張っていればきっと瑠璃の夢は叶う。

 そう、葉も思っていた。


 しかし、たった一つのトラブルで二人が積み上げてきたものは、音を立てて崩れてしまった。

 それは瑠璃だけでなく、葉の心も折りかけていた。


「ごめん、なさい。本当にごめんなさい。今まで葉さんと頑張ってきたのに。私、本当にこんな事で…」


「瑠璃さんのせいじゃ無い!俺が、俺がもっとしっかりしていればー」


 ガクッ

「くっ…」


 瑠璃と言葉を交わしている間にも葉の気力は減っていっていた。

 彼が幸運だったのは、ロープで体を支えている事とうつ伏せの体勢であった為、瑠璃の手を握っている腕に全神経を集中できたことだった。

 しかし、それも刻一刻とタイムリミットが迫ってきていた。

 瑠璃は顔を下に向けたまま、言葉を紡いだ。


「もう、大丈夫です、葉さん。ここ、坂だし、落ちても、運が良ければ、怪我ぐらいで済むかもしれません。それに、私、一つだけとっておきの方法があって、それを使えば死ぬことは、たぶん、回避できると思います」


「でも、それを使わなかった事はそれが100%の保証じゃないって事と、一回使えば、瑠璃さんはこの世界にいられなくなる…とかですよね?」


 瑠璃は何も言わない。彼女はこんな時でも彼に嘘はつけなかった。

 それを理解した葉は何とか腕に力を込めようとする。


「ダメです!そんな事!瑠璃さんには夢があるじゃ無いですか!それを叶えるまでは、この世界に…、あのアパートにいるんでしょう!?」


 自分の力が抜けていく中、葉は気力だけで瑠璃の手を掴み、言葉を投げかけ続けた。

 しかし、彼の問いに対して返ってきたのは



「葉さん、もう良いです。私は夢を…諦めます」



 そんな拒絶の言葉だった。




「夢を諦める…?何で!どうしてそんな事」


 葉の声は悲壮感が混じっていた。

 ただでさえ、折れそうな彼の心に、瑠璃の言葉はトドメに近かった。瑠璃は弱々しい声で答えた。


「こんなに綺麗して貰って、葉さんもたくさん時間をかけて色々教えてくれたのに、私、男の人の手もちゃんと握れない…。こんなペースだと、恋できる様になる時には私、おばあちゃんになっちゃいます。そんなになるまで、葉さん時間奪えません」


 瑠璃は下を向いたまま言葉を紡いでいた。

 葉は彼女の言葉を黙って聞いていた。


「それに、私、ここでじっとしている時に思いました。人は恋愛をしなくても、生きていけます。私の場合はそれを全く知らないで終わってしまうけど…。それも一つ生き方かなって…」


 瑠璃の言葉には本当、諦めの雰囲気が混ざっていた。

 彼女は喋りながら自分に言い聞かせている様だった。


「だから、私、好きな人ができなくても、恋を、しなくても…」


「瑠璃さん」


 彼女の言葉を葉は遮る。

 彼は自分の力が抜けていき、辛く苦しい中でも優しい顔をして微笑んだ。


「瑠璃さん。俺はあなたとこの数日間過ごして、わかった事があります」



「あなたが何かを諦める時は、それは自分よりも大事な何かを優先した時だ」



 葉の言葉を、今度は瑠璃が黙って聞いていた。


「それは瑠璃さんの良いところです。でも、それはあなたの夢を諦めるほどのものなんですか?俺は知っている。この数日間あなたが自分の夢に向けてどれだけ奮闘してきたかを」


 語りながら葉は思い出す。


 あの日、となりに瑠璃が引っ越してきて、

 彼女の夢を知って、彼女がそれに対してどれだけ頑張ってきたかを。


 葉はまた少し笑う。

 彼女と一緒に頑張る中で、彼もまた、『あるもの』を得たことを思い出したからだ。


「だから、瑠璃さん、本当の事をおし―」


「…怖いんです」


 瑠璃はそっと顔をあげる。

 

 彼女の綺麗な顔は数ヶ所傷があり、髪も乱れていた。

 しかし、彼女の顔を見た葉が、最も心を痛めたのは



 彼女が目を真っ赤にして、顔に涙の跡ができるほど、ずっと泣いていた事を知ったからだ。




「怖い…?」


 彼女の顔を見た葉は、絞り出す様に声を出す。

 瑠璃の目からはまだ小さな涙が流れていた。


「私、自分の本当の力があんなに強力だった事を今日初めて知りました。そして、あれを見て思いました。あれが自分の大好きな人に向いた時の事を…」


 彼女の目には残酷な程、しっかりとその時の記憶が焼き付いていた。


 自分の手に触れただけで、大の男が急に倒れた事を。


 そして、同時にこう思った。



 自分の能力のせいで、人を殺めてしまったかもしれないと。



「でも、瑠璃さん。あなたは知らなかったかもしれないけど、湖太郎の見たてではアイツは気絶しただけで―」


「でも、この能力が今より危険にならないなんて、保証はないじゃないですか!」


 大声で悲痛の叫びをあげる瑠璃に、葉は何も返せなくなってしまう。


 瑠璃にとって、あの男が生きていたかとか程度の問題では無かった。

 自分があんなに危険な能力を持っていて、

 それが、問題だったのだ。


 そして、彼女はその能力が悪化した時、その時、本当に人を殺めてしまう。

 そして、もしそれが、例えば喧嘩中の恋人だったら…。


 彼女の心はそれに耐える事はできないだろう。



『瑠璃さんはこんな暗い中でずっとそんな事を考えていた。いや違う。おれが待たせたせいでこんなになるまで、


「だから、葉さん。私は、私は、この能力がある限り、例え、誰かを好きになっても、その人に大きな迷惑をかけてしまう。だから、私には」



「恋愛なんて無理です」



 ズキッ


 葉の心に痛みが走る。その痛みは以前も経験がある。


 彼が初めての恋愛で苦い経験した時、

 彼が自分の事を好きだと言ってくれた、女の子を泣かせてしまった時

 その時、感じた痛みと全く一緒だった。



『これを、この言葉を、この人に言わせたのは。お前のせいだぞ。葉』



 ズアッ

「ぐっ…」


 葉の左手からさらに力が抜けていく。

 彼は自分の意識が少しずつ、朦朧としていくのを感じた。

 そんな彼を見て瑠璃は無理矢理笑顔をつくる。


「だから、もう、良いです。葉さん。私はあなたと楽しい思い出を作れた。それだけで、もう充分です。ありがとう」


 彼女はこんな時でも葉の心配と、彼に感謝を伝えた。

 葉は彼女の為に何もできない自分に腹が立っていた。


『クソッ、本当に、本当にこれで終わりなのか。俺はまだ。まだ、彼女に何も、何も返せていないのに』


 葉は歯を食いしばり、意識をここに、腕に力を込めるが、無情にもそれはどんどん減っていく。


『せめて、せめて、瑠璃さんを助けたい。彼女にこれ以上、辛い思いをさせたくない。絶対にこの手は離さない。何か、何かないか…』


 そう考えていた彼の目にあるものが映る。

 彼はそれを見て、崖の縁を掴み自分の体を支えている、右手を見る。

 彼は自分の考えとこれから体験する事に恐怖を覚え、少し冷や汗を流すが、



『葉さん―』



 瑠璃が自分に与えてくれたものを思い出し、少し微笑んだ。


「瑠璃さん」


 全てを諦めていた彼女は葉の顔を見て驚く。

 彼は優しい笑顔で笑っていた。力が抜け、意識も遠くなりかけているのに、それでも、笑っていたのだ。



「瑠璃さん。さっき、俺の手を褒めてくれてありがとうございます。そして、ごめんなさい」



「葉、さん?」


 その言葉に瑠璃は表現しようの無い不安を覚えた。


 次の瞬間彼は、


「くっ!」

「葉さん、何を!?」


 彼は右手を離し、あるものに自分の右腕を巻き付けた。

 それは、壊れた柵の近くあった


 破壊された『有刺鉄線』だった。

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