あなたの夢を教えて下さい!

「ただいま…」


 バイトが終わり、スーパーの袋を下げた葉は誰もいない部屋に何となく声をかける。

 しかし、その返事に対して返ってくるものは何も無く、彼は自分の馬鹿みたいな行動にふっ。と笑ってしまう。


 そして、いつもと同じ様に夕食を作り、弁当の用意をして、明日の講義を確認して、教材を詰め、疲れていたらそのまま布団で寝る。


 布団に転がった葉は何となく天井を見る。


 いつもと変わらない生活。

 バイト先で湖太郎、マスターと馬鹿な会話する事も

 勝がいるジムでトレーニングする事も

 洋次の店で買い物をして、おまけをしてもらう事も

 美世に料理をあげて喜んでもらうことも

 ジェットと遊ぶことも


 そのどれもが楽しい。

 それは間違い無かった。

 彼はそういった人達に囲まれている自分の今の環境は幸せだと感じていた。

 それも、事実だった。

 しかし、


「ふぅ…」


 ボスッ…


 彼は枕に顔を埋め、目を瞑る。


 バイトがない日の電車の中

 みんなと別れた後の帰り道

 そして、こうやって一人、部屋の中で考えていると『それ』は急にやってくるのだ。

 最近はバイトの最中も、窓の外であるものが見えるとやってくる。


 仲睦まじい『カップル』を見たときだ。



『なんか、寂しいな…』



 そう、彼はいつも心の片隅に寂しさを感じていた。

 そして、彼はその原因を知っていた。


 彼は言った。自分はその舞台から降りたと身だと。

 しかし、降りたというだけで、忘れたり、消えたりした訳では無かった。


 今日起こった事を何気なく報告できる人

 同じ楽しみを共有して笑い合える人

 そして、その人がいれば明日も笑って生きていけると感じられるような人。

 そんな人と一緒にいる事ができた時のその感情を、彼は忘れようとして、それがずっと、ずっとできないでいたのだ。


 離れただけでは、消えなかった。

 その気持ち持つ事の素晴らしさをもう彼は知っていたから。



 それは、瑠璃が命をかけてまで、叶えたいと言った、夢。


 知らない間に彼は彼女と全く同じ夢を見るようになっていたのだ。




「馬鹿ですよね。俺、勝手に恋愛の舞台から降りた。なんて、カッコつけて、皮肉みたいな事言って、遠ざかっていたくせにいつもどこかで何か足りないって思っている自分がいたんです」


 全身に重くのしかかる脱力感も、右腕に走る痛みも、今の葉は全部感じなかった。


 彼には目の前の人にどうしても、どうしても伝えたい言葉があったからだ。


「本当は、その正体を俺はずっと、ずっと知っていました。何が足りないか…なんでずっと前からわかっていたのに。俺に勇気が無くて、その気持ちがどんどん薄れていくことを待っていた。消えるわけなんて絶対に無いのに」


 葉の言葉は瑠璃とそして、自分に伝えていた。

 朦朧とする意識の中で、彼は何一つ着飾ることの無い気持ちを瑠璃に伝えた。


「でも、瑠璃さん。あなたが来てから、俺、思い出しました。あなたの追いかけている夢が、こんなにも楽しくて、嬉しいものだって」


 瑠璃はずっと言っていた。葉に迷惑ばっかりかけている。と


 でも、そんな事は全く無かった。

 なぜなら、葉は彼女から大きなお礼をもうすでに貰っていたのだ。



 何事にも一生懸命頑張る彼女を見て

 転んでも、泣いても、立ち上がる彼女を見て

 嬉しいことがあると大輪の花の様な笑顔をつくる彼女を見て


 いつも葉はこう言われている気がした。




「葉さん、恋愛の為に頑張るって、楽しいですね!!」




 もう彼は彼女から大事なものを貰っていたのだ。

 一度手に入れたはずなのに、王子様が投げ捨ててしまった、黄金色の王冠を。


「瑠璃さん。あなたが、あなたが教えてくれた。俺が忘れようとしていた気持ち。あなたを見て、俺は、俺はもう一度こう思えました!」




「もう一度、誰かを好きになってみたいって―」




 その言葉を聞いて、瑠璃の涙が悲しみの感情から違う気持ちに切り替わる。

 彼女は葉の言葉を聞いて、嬉しくて、泣いていた。


「だから、どんな困難があっても一緒に頑張りましょう!?二人で解決しないなら、みんなで!だって、瑠璃さんはまだ完全に諦めてないじゃないですか!」


 葉は瑠璃の手を握るその手に今ある全て力を込めて、告げた。



「だって、あなたはまだ、俺の手を離していない!」


「葉、さん」


 瑠璃の視界がぼやける。

 ずっと泣いていて、もう涙も枯れ果てたはずなのに、彼女の瞳からまだ涙が溢れていた。

 けれど、その涙はさっきよりもずっと暖かかった。



「あなたが諦めない限り、俺は何度だって言い続けます。

『俺は夢見瑠璃さんに最高の恋愛をして欲しい!』」



「だから、瑠璃さん。もう一度聞きます!あなたの夢を教えて下さい!」



 ギリッ


「ぐっ、あ…」


 力を込めて叫んだ葉の右腕に冷たい有刺鉄線の棘が無情にも食い込んでいく。

 ずっと締め付けられていた右腕は限界が近いのか、それを示すように彼の腕は不気味な色に変色しかかってきた。


『もう、少し…。瑠璃さんが、助かるまで、それだけで…良い。右腕も、限界が近いことは知っている。左手、だって…』


 そう思って葉は左手の異変に気づく。

 左手から抜ける脱力感は彼が気づいた時には、消えており、逆に不思議な活力が流れ込んでいた。


『えっ、何だ?さっきまで脱力感がまったく無い。むしろ、力が湧いて…』


 そっ…


 葉の左手に暖かく柔らかいものが触れる。

 それは瑠璃のもう一方の手だった。


 彼女は両手でしっかりと彼の手を握り、真っ直ぐ彼を見て言った。もう彼女の目に悲しみの涙は無かった。


「葉さん。ごめんなさい。私、勝手に諦めて、貴方に迷惑かけているなんて思い込んでいた。自分勝手で本当に、ごめんなさい…」


「瑠璃さん」


 葉は瑠璃の顔を見て、少し安心し、力が湧いた。

 彼女の目には夢を語っていた時と同じ、それ以上に強い意志が宿っていたからだ。


「葉さん、私の夢は『素敵な人と恋をする事』です!」



「だから、お願いします!私の手を、離さないで下さい!」


「…っ!はい!もちろんです!」


 そう言って葉は、思いっきり瑠璃の手を引いた。

 葉と彼女の体は暗闇の底の淵から、月明かりが優しく照らす宝物庫の敷地内に入っていった。




 ジャラ…


「ぐっ、痛…」


「葉さん!」


 瑠璃の無事が確認できた葉は、右腕に巻き付けた有刺鉄線を外す。

 右腕に感覚はあるものの、錆びて汚れた有刺鉄線に長時間絡まった腕はちょっとした治療で治るような代物では無かった。

 しかし、葉は


「瑠璃さん!無事ですか?怪我は?骨折とかしていないですか?」


 葉は左手で彼女の肩を掴み、詰め寄る。

 瑠璃は慌てて返答する。


「私は大丈夫です。葉さんが、助けてくれたから…」


 そう言って彼女は目元の涙を拭って、笑う。

 それを見て安心した葉は、


「そうですか…。良かっ…」


 フラッ…

 バタンッ!


「葉さん!」


 右腕の痛み、全身を覆っていた脱力感、そして、彼女が無事だという安心感が一気に彼を襲い、彼の意識は夢の中に落ちていった。


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