もう俺は簡単に色んな事から逃げたりしない!

 昨日の出来事から一夜明け、葉の心の中は朝からずっと謎の虚無感が支配していた。


 いつも通りシャワーを浴びて身だしなみを整え、通学の為、自転車を引き出す。

 そして、道路に出た時


「ワンッ!」


「あら、葉ちゃん。今日は早いわね。おはよう」


 葉は声の方を振り向く。美世とジェットだった。


「あっ、おはようございます。月長さん…」


 葉は二人に近づき、ジェットの前でしゃがみ挨拶をする。


「ジェットもおはよう…」


 ジェットはしばらく葉をじぃーと見ていたが、


「クゥーン…」


 葉の手をペロペロ舐め始めた。

 葉は突然の事に少し驚いたが、美世がいつもと同じ穏やかな口調で説明する。


「その子、仲良くなった人に元気がないと、甘えて元気づけようとするのよ」


 葉はドキッとする。


『俺、落ち込んでいた…?』


 葉は顔を上げて美世を見る。彼女は優しく微笑んでいた。

 葉はジェットの頭を軽く撫で、立ち上がって美世に言う。


「だ、大丈夫です。俺は元気ですから。あっ、これ昨日のお肉のお礼です。すごく美味しくできたと思うので、食べてみて下さい」


 紙袋に入ったそれは昨日、瑠璃が帰った後に作ったポークカレーだった。


 確かに葉の言う通り、良い豚肉の効果もあり、味は百点をつけられる出来だった。

 しかし、葉は味見のみで昨日は夕食を食べる事が出来なかった。


 美世はそれを受け取るとありがとう。と言って、また微笑む。


「葉ちゃん、『何かあった?』なんて、野暮な事は聞かないわ。人間、誰しも生きていれば悩みの一つや二つあるものだもの。でもね…」


 そう言って、美世はジェットを抱きかかえ、葉に言った。


「困った事、悩み事で私が手伝えることがあったら相談してね。この子も葉ちゃんに元気になって欲しいと思うから…」


 ねー、ジェット。と美世が言うとジェットも「ワンッ!」と答える。

 それを聞いて、葉は少し目頭が熱くなり、それを見られないように振り返った。


「ありがとうございます…、美世さん。ジェットもありがとう」


 葉はそれしか言えず、自転車をこぎ始めた。

 美世とジェットはそれを優しい目で見送っていた。


「クゥーン…」


 ジェットが美世の顔を舐める。美世はジェットに微笑む。


「そうね…。早く元気になって欲しいわね。葉ちゃんも…瑠璃ちゃんも。どっちもジェット大好きですものね…」




 朝、美世とジェットに少し励まされた葉だったが、それでも、また元気は出なかった。


 早めに学校に着いた彼は食堂でパンを購入し、ベンチに座ってそれを食べる。

 午前中の講義も前の席で受け、教授の話をしっかり聞き、ノートをまとめる。

 少しわからない事があったので、次の講義までに図書館で調べものをする。

 そして、また次の講義を受ける。


 いつもと同じ。葉はずっとこんな感じで大学生活を真面目に送ってきた。


 でも、今日は違った。やることなす事全て集中できなかった。


 頭の中でずっと昨日の瑠璃の泣いていた顔が忘れられない。

 ただの隣人の事がずっとずっと気になっているのだ。


 彼が無気力のまま一日を過ごしていると、いつの間にか昼になっていた。

 彼は人の少ない学校の外のベンチで一人、食事をする。


 ぼーっとしながら、弁当の蓋を開けるとそこに入っていた食べ物に葉は少し驚く。


「俺、これ弁当に入れていたのか…」


 弁当箱の中にあったのは、昨日、瑠璃が作ってくれた『鯖の味噌煮』。


 葉は今朝、落ち込みすぎていて何も考えずに弁当を用意していた為、自分で入れたにもかかわらず覚えていなかったのだ。


 葉は何も考えずにそれを一口食べる。

 その瞬間、今日一日ずっと無気力の霧に覆われていた気持ちがさぁっと晴れていった。


「…美味い」


 彼は弁当を夢中で食べた。

 そして、食べている最中に今日一日、自分がずっとくだらないことを考えていた事を思い出す。



 泣いていた女の子に何もできなかった自分。

 でも、何かできたとしてもまた傷つけるかもしれない。

 彼女と俺はただの隣人。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 それ以上踏み込むならそれは図々しいことだ。


 でも、彼女は何かできない自分が悔しくて泣いていた。


 そして、それは恋愛という舞台から自分で勝手に諦めて逃げた葉がもう忘れかけていた感情だった。


 弁当を全て食べ終わった時、葉は自分の片目から何か流れていた事に気づく。

 それは一筋の涙だった。


『俺、本当はあの人の助けになりたかった。ただのおとなりさんでも。ついこの間あったばかりの人でも…。それを俺はずっと言い訳して逃げてきていた…』


 葉の中で本当はもう答えなどとっくに出ていた。ただ、踏み出す勇気が無かった。


 過去の自分の過ちを今の自分の言い訳にして、ずっと二年間も逃げてきた。

 いつしかそれは彼にほんの少し勇気を持つことすら奪っていった。


 困っている女の子がいたら、できる範囲で手を貸す


 王子様の自分としてではなく、金木葉として彼女の手助けをしたかった。

 それはかつて幼かった葉は何も考えずにできていた行動。

 葉は再びその時の気持ちを思い出す。


 『嫌われるかもしれないし、口をきいて貰えない可能性だってある。でも、俺は…』



『夢見瑠璃さんの力になりたい!』



 そう思った時、葉の見える世界は霧から晴れて鮮やかに色づいていた。






 葉はスマホを取り出し、ある人物に連絡する。


『はいはい、葉?何?』


 電話越しに気の抜けた声を出すのは、彼の親友、玻璃湖太郎だった。


「湖太郎。今日、俺、講義全部終わったら、今月のバイトのシフトの相談をしにそっちに行く予定だっただろ?」


『んあー、そうだな。というか、俺もう着いて、マスターのコーヒー飲んでいるぞ。それが、どうかしたのか?』


「悪い。俺、それ行けなくなった。後でバイトのシフト送ってくれ。理由は…今は聞かないでくれ」


 一方的なお願い。彼らが普通の友達だったらこれで縁が切れることだってある。

 しかし、湖太郎と葉の縁はそんなものよりずっと丈夫で強かった。

 それを聞いて湖太郎はこう答えた。


『そっか…、わかった。マスターには俺から言っておく。なぁに、俺が誤魔化す事、上手いの、お前も知っているだろ。任せとけ。…それと頑張れよ!』


 彼は葉が何を頑張るか知らないのに励ましてくれる。

 こういう所が彼がと言われる理由なのだろう。


「ありがとう、湖太郎。今度、必ずお礼する」


「そうか?じゃあまた、俺、カレーが良いわ。今度は違う奴で頼む」


「どれだけ、好きだよ、カレー。わかった。覚えておく。じゃあ、頼んだ」


 おぅ。と言って湖太郎は電話をきる。葉は弁当を片づけて、急いで、駅に向かう。


『今日の講義はもう無い、マスターへの連絡は…湖太郎、マジありがとう』


 葉は駆ける。

 場所はわからない、会えるかどうかの確証も無い。

 でも、彼は走った。


『瑠璃さん、今、どこにいますか!?』


 彼に当たる、夏の日差しが眩しかった。




 ピッ


「葉。なんかちょっと変わったな」


 湖太郎は彼が約束を破ってまでやりたい事があると聞いたのを久しぶりに聞いた気がする。

 そして、それはおそらく名前しか知らない『例の美女』が関係していると思った。

 彼は喫茶店の椅子に背中を預け、ゆっくり伸びをする。


『あとは俺がマスターに良い感じの言い訳をして―』


「葉くん、今日はお店来ることできないって?」


 ガタッ


 突然のマスターの登場に湖太郎は椅子から転げ落ちそうになる。


「マスター!突然、現れないで!マジで落っこちるかと思ったわ…」


 湖太郎は体勢を戻し、視線をマスターから外す。


『やべー、言い訳しとくとか言っていきなり計画倒れじゃん、俺。どうしよう…』


 彼がそう思っているとマスターは特に咎める事も無く


「そっか、ちょっと残念だけど、仕方ないよね…」


 と言った。

 湖太郎は恐る恐る聞き返す。


「怒んないですか…。一応、バイトに関係する約束なのに…」


 それを聞いてマスターはふっ。と笑う。


「別にバイトをサボった訳でも無いし、怒る事なんて無いよ。それに、もしそうだったとしても僕は葉くんと君だったら怒らないさ」


 湖太郎は黙ってマスターの話を聞く。

 マスターはコップを磨きながら、話を続ける。


「君と葉くんの仕事ぶりを見てきたけど、君たちはくだらない理由で約束を破るような人間じゃない。そんな君たちがどうしても約束を反故にしてまでやりたいことがある。それはきっと大切で素敵な事だ。それならば、僕はそれを応援する人間でありたいよ」


「…マスター。前から思っていたけど、貴方、良い男ですね」


 それを聞いて、マスターは笑い、褒めてもコーヒーしか出ないよ。と言った。

 それを聞いて湖太郎はここで葉と一緒に働けて本当に良かったと思った。


 そうこの時までは


「しかし、ちょっと困ったな…。葉くんが無理となると、僕の奥さんが来るまで二人で頑張らないと行けないのか…」


『頑張る?二人で?』


 湖太郎は猛烈に嫌な予感がした。マスターは遠い目をして続ける。


「実はこの間、奥さんが新作のケーキを作ってね。これは美味しかったから問題は無いし、僕もレシピを聞いて作れるから良いけど、問題はその発売日を今日にした事さ…」


 湖太郎は喫茶店の窓の外を見る。

 外はお客さんがズラッと並び、新作のケーキを食せる時間を今か今かと待っていた。


「奥さん、自分で発表しておいて、『ここ最近の天候で野菜が心配』って農園に行っちゃったけど、葉くんと湖太郎くんがいるから三人で何とかなるかな…って思っていたのさ。さっきまでは…」


 マスターは湖太郎の肩をガシっと掴む。その力強さは猛禽類が獲物を捕まえる時の爪の様だった。心なしかマスターの目も鷹の様だ。その様子は『絶対に逃がさない』という強い意志を感じる。彼は笑顔で言う。


「という訳で僕の奥さんが帰ってくるまで、お店手伝って。バイト代はずむから!」


 湖太郎は遠い目をして、今はここにいない親友に伝えた。


「葉…俺、次回はエビのカレーが食べたいな」






 親友が大変な事になりそうな時、葉も色々な場所を駆けまわっていた。


 横丁、公園、駅…一通り回ったもの瑠璃は見つからなかった。

 葉は走り回ったせいで、呼吸は乱れ、体中に汗をかいていた。


『そういえば、俺、夢見さんの事何も知らない。働いている場所すら…俺は知らない』


 葉は今になって後悔し始めた。

 急に体調が悪くなって倒れるなんて事情を知りながら、自分はどこかで線を引いていた。


 自分には助けられないと思い込んで


『まずは聞いてやるくらいできただろ、俺のアホ』


 彼はまた走り回ろうとしたが、さすがに汗まみれの体で女性に近づくのはどうかな。と思い、一度家に帰る事にした。


 外は少しずつ、日が傾き、夕方に近づいていた。

 葉はドアを開け、部屋に入り、エアコン、扇風機を回す。

 あまりにも汗をかきすぎて気持ち悪かったので、軽くシャワーを浴びて、涼しくなった部屋で着替えた。


 そして、ベッドに寝っ転がり足を延ばして、今日、酷使した分の足の疲労を回復しようとしていた。


『今日はもう会えないかな…。夢見さん、どこにいるんだろう』


 葉がベッドの上で少し眠気に襲われたその時、


 ガタッ


 横から物音が聞こえた。葉は飛び起きる。


『今の音、横の部屋から…。夢見さん、もしかして帰ってきていたのか?』


 彼は慌てて、身支度をする。

 昨日渡せなかったお茶の缶、彼女の手料理が入っていたボウルは今朝、綺麗に洗って乾かしてあったので、それも紙袋に入れ、自分の姿を鏡の前でチェックし、ドアに手を掛けようとした時、その手が止まった。


『俺は夢見さんに会って、何を言う?もう来ません。とまで言われたのに…』


 ここに来て、葉はまだ決断できなかった。ここまで来て、勇気が出なかった。

 彼は一筋汗をかいたが深呼吸して、思い出す。


 それはこれからまた顔を合わせるかもしれない、素敵なおとなりさんの事。


『はい!ありがとうございます!葉さん!』

『見てください。葉さんから可愛い葉っぱが取れました!』

『いってらっしゃい!』


 こんなに短い期間なのにあの人の笑顔は俺の脳裏にずっと焼き付いている。


『私の名前は夢見瑠璃って言います。よろしくお願いします、葉さん』


「…もう答えは出ているだろ、


 ガチャ


 彼は扉を開けた。


『もう俺は簡単に色んな事から逃げたりしない!』






 コンコン…


 葉は彼女の部屋のドアをノックする。

 物音はしたが、昨日の体調の悪化が原因で寝ているかもしれないと思い、チャイムは控えた。しかし、反応は無い。


『物音はしたけど、いないのかな…』


 葉はボウルとお茶の缶が入った紙袋だけでも置いていこうとして、ドアノブの手をかけた。


 ガチャ…


「えっ?!」


 彼は思わず声を出す。ドアには鍵がかかっていなかった。


『夢見さんみたいなしっかりした人が鍵をかけ忘れた?いやでも、あの体調の悪さを見ると…』


 ガタンッ


 また、大きな物音がする。


『もしかして、また…!』


 葉はベルも鳴らさず、彼女の家に入ってしまう。

 瑠璃がまた、体調不良で倒れたかもしれないと思ったからだ。


 彼が部屋のドアノブに手をかけようとした時、


「…だって、できないよ!」


 彼女の声が聞こえた。葉はドアを開けようとした手を止める。

『良かった、無事みたいだ…。ただ、夢見さんいつも様子が違うような…』


 彼女は大人びた雰囲気を持つ年上美女のような人だった。しかし、今の口調はそんな雰囲気は無かった。

 まるで姉と話している自分の様だ。と葉は思った。


「お姉ちゃんのいう事もわかるよ。私たちにとってそれがどれほど大切ですぐにやらなくてはいけないことだっていうのも…」


『姉…?夢見さん、お姉さんがいるのか…』


 そうすると、葉はその気は無かったにせよ姉妹の会話を盗み聞きした事になる。

 少し罪悪感が彼を襲う。

 彼女たちの会話はまだ続く。


「それは…葉さんは、親切だし、話も面白いし、素敵な人だよ!そんな事は私だってわかっているよ!」


 ドキッ


 葉は顔が赤くなる。


『瑠璃さん、俺の事、そんな風に思っていてくれたのか…』


 面と向かってお世辞を言われるよりも遥かに嬉しかった。葉はそれだけでもこの場に入れて良かったと思った。

 かなり犯罪に近い行動をした結果だが。


「それでも、できないよ!」


『さっきから、言っている、このって何の事だ?もしかして、それは夢見さんの急な体調不良と関係しているのか…?』


 葉が考えていると、瑠璃は大きな声で姉に言った。

 その言葉は普段の瑠璃からは絶対に想像できないようなワードだった。


「だって、私、恋人でも無い人と!!」


『なっ…なにーーーーー』


 葉は驚きのあまり、手に持っていた紙袋を落としてしまう。


 ガラガラン!


 中に入っていた、ボウルとお茶の缶は床に落ちて派手な音を立てる。


「うわっ、やべっ!」


 ガチャ!


 部屋のドアが開く。


 そこにいた女性と葉は思いっきり目が合ってしまった。


 それはいつもと異なり縁の青い眼鏡をかけてはいたが、

 葉が昼間必死になって探していた女性



 夢見瑠璃だった。



「すいません。夢見さん…」


 葉は色々な件を含んだ謝罪の言葉しか出なかった。

 しばらく瑠璃はじっと葉を見ていたが、少し俯く。

 すると、耳が一気に赤くなり。


「い…」


「い…?」


 次の瞬間、葉が見たのは


「いやーーーーーーーー!」

 バチーン!!


 顔を真っ赤にして、恥ずかしさで涙まで流していた瑠璃の顔だった。

 そして、彼女は部屋に響くレベルの強烈なビンタを葉に喰らわせる。


『…あぁ、やっぱり可愛いな』


 葉は彼女から強烈なビンタを受けたのに、彼女の恥ずかしそうな顔があまりにも可愛くて、世界が輝いて見えた。


 その幸せな気持ちを抱えたまま、彼の意識はどこか遠くに飛んで行った。

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