第四十八話 「有酸素運動」
俺が厨房に入った時に見えた女性の後姿。
そのシルエットにどこか違和感を感じながらも、こんな時間に厨房で調理をしているのはカティ以外に考えられない。
声をかけて振り向いたその女性は……
「あ、シュン……
も、戻られていたのですわね。
おかえりなさい」
カティは少々ぎこちない言葉で迎えてくれた。
「あ、ああ……
昨日、戻ってきたんだ……」
彼女を見ていると、うまく言葉が出てこない。
その声も、その髪型も、着ている洋服も、まぎれもない普段のカティのものだ。
だが……
「あの、その……
カティ、しばらく見ない間に……」
一瞬の静寂が厨房を満たす。
カティは俺と眼を合わせるのを避けるように、瞳を泳がせている。
そして、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれだした。
「う、ううう……
うえぇぇぇぇぇぇん……」
とうとう声を上げて泣き出してしまった。
俺が彼女を見て驚いた理由、それは、彼女のシルエットが横幅で1.5倍程度に大きくなっていたからだ。
おそらく、メニューのレシピを試行錯誤して試食を繰り返し、その結果、炭水化物を摂りすぎてしまったのが原因だろう。
スレンダーでシャープなイメージだったカティが、今では丸々としたぽっちゃりさんに変貌している。
彼女は自分でもそれを認識していて、俺の反応があまりにもショックだったのだろう。
「カ、カティ。
ごめん、その……
しばらく留守にしてしまって、手伝ってあげられなくて。
一人で頑張っていたんだね」
すると、彼女は次第に泣き止み、俺の顔を見て、小さく頷いた。
「それで、どうだい?
レシピは固まったかな?」
「う、うん……
だいたい、いい具合にできたと思いますの……」
「そっか。
じゃあ、後は開店を待つだけだな」
カティの動揺もだいぶ落ち着いてきたようだ。
「でもね、開店してもお客さんが来てくれないんじゃないかって、とても心配なのですわ」
ハンカチで涙を拭いたその瞳に、不安の色が浮かんでいる。
「一度でも食べていただければ、その美味しさを分かっていただけると思うのですが……
見たことも聞いたこともない料理の新しい店に、果たしてお客さんが入ろうと思うかしら、って」
確かに、彼女が不安に思うのも一理ある。
得体のしれない食べ物を、初見で食べようとする冒険的な人が、はたしてどれだけいるだろうか。
口コミでパスタの美味しさが人々に伝わり、次第に客足も増えてくるとは思うのだが、それにどのぐらい時間が必要なのか、全く読めない。
「そうだな。
なるべく多くの人に、まずは食べてもらう必要がある、ってことだな」
「そうなのですわ。
何かいい方法がないでしょうか?」
店のオープン記念として半額セールをするか?
店頭で道行く人々に試食してもらうか?
うん、どちらも悪くないかもしれない。
ふと、より効果的な案を思いついた。
「なあ、カティ。
クララの家の工房で、新しく弓をお披露目するって話、聞いているか?」
唐突に関係の無い話題を振られて、カティは少々戸惑っていたが、知っていると答えた。
「街の広場で、けっこう大勢の人々を集めて催しをするんだ。
クーランディアっていう弓の名人を呼んで、対談形式で弓の良さを一般大衆にアピールする計画なんだけどさ」
カティは、俺が何故そんなことを言い出したのか、不思議そうな表情で黙って聞いている。
「その、弓のお披露目の場を、利用させてもらおうか」
「あら、よろしいんですの?
お邪魔にならないかしら?」
「まあ、弓の宣伝を邪魔しないように、うまくやるさ」
そして、それから俺たちは、どうやって弓のお披露目に便乗するか、相談して決めていった。
ちょっとしたサプライズ的な企画になりそうだ。
カティもそういったことが嫌いではないようで、楽しそうな表情でアイデアを出してくれた。
和やかな笑顔が輝いている。
横1.5倍だけど……
でも、よかった。
最初、泣かれた時はどうしようかと思って、俺はけっこう焦っていた。
一通り話がまとまり、しばしの静寂が厨房を満たす。
そして、俺がその静寂を破った。
「なあ、カティ。
これから数日、毎朝俺に付き合わないか?」
これまた突然の提案に、眼を丸くして驚いているカティ。
「え?
えっと、毎朝、どこかに行かれるんですの?」
「俺さ、体を鍛えるために、毎朝トレーニングしてるんだよね。
街の中をジョギングしたりしてるんだよ」
「ジョギング?」
ジョギングが何を意味しているのか、分かっていない様子だ。
「ジョギングっていうのは、ある程度長い距離を走るっていう、運動の一種だよ。
足腰の筋力アップと、心肺能力と持久力の向上が目的なんだけどね」
一呼吸を入れて、言葉をつなぐ。
「有酸素運動って言ってね。
体内の脂肪を燃焼するには、特に効果的な運動なんだよ」
我々は食事で摂取した糖質をグリコーゲンとして体内に蓄えている。
運動をする際、グリコーゲンを分解し、エネルギー源としているのだが、体内のグリコーゲンの量には限界があるため、その後は体脂肪を分解してエネルギー源にするようになるのだ。
体脂肪を分解するには大量の酸素が必要となるので、酸素を取り入れながら運動を継続することになる。
故に、これを有酸素運動と呼んでいる。
カティの瞳に輝きが増した。
「脂肪を燃焼……
あの、私、元の体型に戻れるのでしょうか?」
「ああ、もちろん。
俺が責任を持って、元のスレンダーなカティに戻してあげるよ」
今は一時的な大量の糖質を摂取したせいで、体内に脂肪が蓄積しているだけだ。
元々は痩せ気味な彼女なら、少しの運動で元に戻るだろう。
それを、最も効率的な方法で導いてあげるだけのことだ。
「シュン、ありがとうございます!
毎朝ご一緒できるだなんて、とても嬉しいことですわ」
なんか、ちょっと違ったところに感動してる気がするけど、まあいいか。
それから数日間の毎朝のジョギングにより、カティはスレンダーな体型に戻ったのだが、二人で一緒にジョギングはそれ以降も続くことになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます