第三話 「森のクマさん」

 音がした方向に目をやる。

 下草は繁みになっていて、何がいるのか見えない。

 しかし、繁みが揺らされて音を立てているのは、一箇所ではない。

 その”何か”は複数いる。

 しかも、俺を包囲するように、四方から気配がしているのだ。

 

 俺の前方、下草が途切れた場所に、それは姿を現した。

 

 犬? いや、大きいな。オオカミか。

 

 大きさは、顔の高さで1.5mほど、体長で2mはあるだろうか。

 黒っぽい毛の色をしており、鋭い灰色の眼が光っており、牙を生やした口は、歯をむき出しにしている。

 その口からはよだれがあふれ、滴っている。

 時おり、グルルとうなり声も上がる。

 ゆっくりと歩を進め近づいてくるその眼は、俺をにらみつけたまま逸らそうとしない。

 

 俺、獲物ってことか。

 ロックオンされたみたいだな。

 

 不思議と俺は冷静さを保っていた。

 非現実的な状況を無理矢理認識したことで、何が起きても想定の枠内、という思考回路ができたのかもしれない。

 

 数は、八頭か……あるいはそれ以上か

 

 武器になるものは……そっとポケットに手を差し込むと、スマホを取り出した。

 

 彼らにとって、俺はただのか弱き捕食対象でしかない。

 エサをとるために狩りをする。

 それは彼らにとっての日常だ。

 ところが、俺にとっては全くの非日常的状況。

 ならば、彼らにも非日常を味わってもらい、少しでもハンデを恵んでもらおう。

 

 俺の作戦は、こうだ。

 スマホから、奴らが聞いたことも無いような音を大音量で流し、怯んだ隙をついて逃げる。

 オオカミの群れと生身で戦っても、万に一つも勝ち目はない。

 逃げて逃げ切れるかどうかは全くもって自信が無いが、現時点では最善の策に思えた。

 

 俺はスマホを操作して曲を選び出す。

 Guns N' Roses - Welcome To The Jungle だ。

 

 ジャングルじゃあないけど、今の俺にピッタリか?

 

 オオカミたちの包囲が狭まり、今や飛び掛らんとした時、俺はスマホの再生ボタンを押した。

 

 深い森の中、静寂を破って、ギターがイントロを奏で出す。

 

 よし、オオカミが戸惑っている。

 エレキギターの音色なんて、初めて聞いただろ!

 

 そして俺はオオカミの包囲網の、いちばん薄い方角に向けて全力疾走をはじめた。

 

 下草の繁みをかきわけ、木の根につまづかないように注意しながら。

 わざと木を回り込むように、ジグザグに走る。

 背後から聞こえてくる足跡と息遣いで、オオカミが追いかけてきているのがわかる。

 距離はかなり近い。

 

 スマホから流れる曲は、イントロの途中、ドラムのリムショットが大きく鳴った。

 

 お、ちょっと距離が離れた。

 

 また、オオカミとの距離が縮まっていく。

 アクセル・ローズのボーカルが入る。

 

 また離れた。

 

 どのくらいの時間、全力疾走を続けただろう。

 息が荒い。肺が悲鳴を上げている。

 口から心臓が飛び出してきそうだ。

 涙があふれ出てくるが、拭いている余裕は無い。

 立ち止まることは、走りを緩めることは、自らの死を意味するからだ。

 

 まさに死に物狂いの疾走を続けていたそのとき、おもむろに風景が変化した。

 森の高木が途絶え、丈の低い下草のみ生えているのが続いている。

 陽の光に照らされ、森の中の薄暗さと対照的に、まぶしいぐらいに明るい。

 そして、その先には岩肌を露出した崖がそそり立っている。

 

 袋小路だ。

 

 俺は崖の岩肌を背にして立つ。

 オオカミの群れは、俺を中心に円弧を描くように包囲網を築いている。

 その包囲網は、徐々に狭まってくる。

 

 スマホから流れる曲は、そろそろ終りを迎える頃だ。

 狼の非日常、そろそろ終了。

 俺自身の命、そろそろ終了。

 

 俺は無意識にボクシングのファイティングポーズのような構えをとっていた。

 目の前だけを注視するのではなく、視界を広くとっている。

 方位の間を抜けて逃げる隙はなさそうだ。

 オオカミが俺に向けての跳躍の予備動作で、わずかに体を沈める。

 

 来る!

 

 俺の身構えた体に力が入る。

 

 ……あれ来ない。

 

 オオカミたちの挙動がどこか変だ。

 落ち着かない様子でキョロキョロとまわりを見ている。

 俺もキョロキョロしてみる。

 

 オオカミたちが揃って目を向けた方向に、俺達が抜けてきた森とは別の方向の、森の切れ目のあたりに、黒く巨大な生き物がこちらに向かってゆっくりと動いている。

 それは熊だった。

 ヒグマやグリズリーに似ているが、大きく違うところといえば大きな二本の牙を上顎に生やしているところか。

 ひとつ大きな咆哮を放つと、四つ足で走り出す。

 こちらに向かって。

 

 目標は、俺だろうか。

 オオカミだろうが熊だろうが、どちらを敵に回しても、俺の生存率は極めて低い。

 逃げ場の無いこの状況は、いまだ絶体絶命であった。

 

 逃げ場の無い……あった。上だ。

 

 俺はスマホを地面に放り投げ、迫り来る熊に背を向けると、崖を登り始めた。

 岩肌の小さな突起に指をかけ、つま先をかけて体重を支える。

 俺にはフリークライミングの経験など皆無だが、命がけのこの状況で、自分的には驚異的なスピードで登攀することができた。

 

 高さ5~6メートルぐらいまで登っただろうか、恐る恐る下を見下ろしてみる。

 オオカミの姿はすでになくなっており、熊が後ろ足で立ち上がりこちらを睨みつけていた。

 体長は3メートルほどあるだろうか。長く鋭い牙が、その表情をさらに獰猛なものにしている。

 熊は俺に手が届かないことを理解したようだが、立ち去るわけでもなく、その場に座り込んでいる。

 そのうち力尽きて落ちてくるだろうと考えているのか。

 このまま耐え続けていれば、熊はあきらめて帰ってくれるだろうか。

 彼も生身の熊、そのうち腹も減るだろう。

 いくら待っても獲れないとわかれば、別のエサを求めて移動するのではないだろうか。

 

 その熊は落ちているスマホを珍しそうに眺めている。

 おもむろに口に咥えると、バキバキと噛み砕いてしまった。


 俺はさらに上へと登りたかったのだが、今より上はオーバーハングになっており、俺の技術と体力ではこれより上に登るのは不可能だった。

 

 ダメモトで、助けを呼んでみよう。

 

「お~~~い! 誰か~~~~! 助けて~~~~~!」


 ……

 

 それから何度か、大声で助けを求める叫びを上げてみたが、何の反応もなかった。

 代わりに熊の咆哮が返ってくるだけだ。

 岩壁にはりついてから、どれだけ時間が経ったのだろう。

 岩のくぼみに指をかけて体を支えているが、すでに指先の感覚はなくなっていた。

 そろそろ日も暮れようかと、太陽はその高さを下げてきている。

 熊は立ち去ろうとする素振りも見せない。

 

 魔法陣で召喚された主人公が、熊に食べられて即終了! なんて、ストーリー的にありえないでしょ、普通。

 

 それはさすがに、ありえなかったようだ。

 

 遠くで、馬の蹄の音といななきが聞こえてきて、それらは近づいているように感じた。

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