第六十話 「PDCA」
かくして、パスタ屋の来店者数は開店当時のレベルに戻った。
いや、それ以上と言っても過言ではない。
開店前から店外には長蛇の行列ができ、開店と同時に店内は満席だ。
営業時間を通して、休んでいる暇すら無いぐらいだ。
そんな余裕のない状態では満足のいくサービスは提供できないということで、ホールスタッフと厨房スタッフを雇い入れた。
それぞれの業務について、その手順を詳細にマニュアル化し、しっかりとした教育を行った。
店の定休日は新入スタッフの教育訓練に費やされたのだが、背に腹は代えられない。
そうすることで、サービスの質もきっちり確保できたのだ。
来店者数の増加に加え、ピッツァ屋とのコラボ戦略の効果から平均客単価も増加し、売上も利益もさらに伸びていったのであった。
店の経営状態は順風満帆。
厨房スタッフの戦力増強とその成長により、なんとか俺が抜けても大丈夫な状態になったのは、魔法研究院の入門課題の猶予である一ヶ月がちょうど経とうとした頃であった。
魔法研究院の入門課題である風魔法の顕現。
それに必要な魔力の量に対し、俺の持つ魔力量が足りていないという問題点は明確であり、魔力量を増加させる鍛錬法も教わっていた。
しかし『女帝』がらみの騒動と、そこから続くピッツァ店との連携、店の大繁盛と新人スタッフの育成、その他もろもろと俺の生活は多忙を極めた。
魔力の鍛錬に集中して取り組む時間を捻出することは、とても無理であったのだ。
では、入門課題に対して何の準備もしてこなかったのか?
否である。
その魔力の鍛錬法とは、体内で魔力を動かし、魔力をこねるというものである。
慣れてしまえば料理をしながらでもできる鍛錬だ。
俺は四六時中、この鍛錬法を行いながら、パスタ屋の経営回復と持続的繁栄のための準備に取り組んできたのだ。
とは言っても、これがなかなか、簡単ではなかった。
最初のうちは、魔力のコントロールに意識を集中することが必要であり、多少の時間であっても大きな疲労感を感じたりしていた。
また、ただ魔力を動かせばよいというわけでもなく、一気に大量の魔力を、勢い余って動かしてしまうと、その反動が体に返ってくるのだ。
その反動についてはうまく表現できないが、その結果として強い嘔吐感を催す。
要は、繊細なコントロールを要求される鍛錬であるということだ。
俺も慣れるまでは何度か吐いてしまった。
脂汗を流しながら小麦粉をこねている姿は、新人スタッフの目には奇異に映ったことだろう。
しかし、新人スタッフ達が一人前に仕事をこなせるようなレベルになった頃には、俺もこの魔力の鍛錬を無意識レベルでできるようになっていた。
一度に魔力を動かす量、スピード、距離、まさに自由自在にできるようになった。
吐き気を覚えることも無くなった。
魔力を動かす範囲も、体内だけにとどまらず、一度体の外に放出してから再度体内に戻す、といったことも可能になった。
また、これまでは手や指先からしか魔力を放出できなかったのが、体のどこからでもできるようになった。
頭の先からでも、足の先からでも、口の中からでもできるし、なんならお尻から出すことも可能だ。
このような、魔力のコントロールの習得に加えて、本来の目的であった魔力量の増加についても、その効果は絶大であった。
どれだけ増えたかの検証はできていないが、体感的には元の数倍、……いや、十数倍には増えただろう。
課題である風魔法も、ガラドミアが提示したレベルのものは十分に顕現できそうだと感じる。
試験をクリアできれば、晴れて魔法研究院に入門が叶う。
これまで通りパスタ屋を手伝うことはできなくなるだろう。
そのための準備も整えた。
閉店後の片付けをしながら、さあ明日は入門試験その日だ、と物思いにふけっていた時、俺の名前が呼ばれていることに気がついた。
「シュン、お客さんよー」
俺を呼ぶクララの声に応えつつ、厨房を出てみると、リカルドが店内に立っていた。
俺は軽く手を上げて声をかける。
「よう、リカルド。
おつかれさん。
今日も大繁盛だったようだな。」
ピッツァ屋からパスタ屋が受ける日替わりメニューの注文の数で、おおよそのピッツア屋の客の入りがわかる。
今日も、もちろん連日連夜なのだが、休む暇のないくらいの客入りだったはずだ。
「ええ、その通りですよ、シュン。
リピーターも増え、定着しつつあります。
シュンの言ったとおりになりました。
本当に、君には頭が上がりません。」
「いや、そんなことはいいんだ。
しかしこれに満足せず、努力と研鑽を続けていかないと、先はないってことは覚えておけよ。」
「ええ、わかっています。
君に言われたとおり、ピッツァソースのレパートリーを増やしたのはとても評判が良いみたいですし、新メニューの考案にも取り組んでいます。
季節の野菜、旬の食材を使ったシーズナルメニューも、近々提供できると思います。
その時は、ぜひ食べに来て下さい。」
「ああ、期待してるぜ。」
リカルドの良いところは、まずはその真面目さである。
俺のアドバイスをきちんと把握、理解し、その上で忠実に実行する。
良い結果が出れば、その効果を考察して次につなげるし、思うような結果にならなかった場合であっても、何が足りなかったのかを反省して次につなげるようにしている。
そういった、計画-実行-考察-反映、のサイクルをしっかり回すことで、実力もつくし結果も伴っていくのだ。
事業経営の基本のキである。
俺はこの考え方をみっちりリカルドに仕込んだ。
真面目なリカルドはそれを忠実に実行に移し、一人前の経営者に育とうとしていた。
ちなみに、この計画-実行-考察-反映のサイクルは、Plan-Do-Check-Actionの英語の頭文字をとって、PDCAサイクルと呼ばれていることは、余計な情報である。
そのうちテイクアウトやデリバリーといった業態について、指南してあげようかな、なんて思っていると、リカルドが話題を変えてきた。
「ところで、急で申し訳ないですが……」
「ん?」
「うちのねえちゃ……、姉上がですね、君を自宅に招待したいと言ってきたんです。
それも明日なんですけれども、いかがでしょうか。」
リカルドはそう告げると、懐からカードを取り出し、俺に手渡す。
マルゲリータの直筆であろう、簡単な招待状のメッセージが書かれている。
魔法院の試験は夕方だし、昼過ぎまでなら特に問題はない。
リカルドに確認したところ、軽くランチを一緒に、ということだったので了承した。
翌日、俺はモンテスカーノ家に向かって歩いていた。
マルゲリータとリカルドの住まう家である。
クララとカティも誘ったのだが、どちらも店のことでやることがあるから、と断られてしまった。
店が繁盛し、経営も順調でモチベーションが上がっているのは良いことなのだが、仕事のし過ぎで過労で倒れないように、気をつけてあげないといけないな、等と考えているうちに、その家が見えてきた。
『女帝』が住まう家となれば、どんな豪邸だろうと想像していたのだが、到着してみるとそこには、普通の庶民となんら変わらない、慎ましやかな邸宅であった。
呼び鈴を鳴らしてしばらく待つと、ドアが開かれた家の中には、もう何度も顔を合わせているマルゲリータが立っていた。
何度見ても、その美貌には目を奪われる。
その整った容姿に加えて、その立ち居振る舞い、細かな所作に至るまで、とても優雅であり気品さえ感じる。
不意を突かれたように、急に緊張してきてしまった。
「あ、あの、これ……」
と、どもりながら俺は持ってきた小さな包みをマルゲリータに手渡した。
流行っている菓子屋をカティに教わって、ここに来る前に買ってきたものだ。
他所様にお呼ばれするときの手土産は、日本のサラリーマンとしての常識である。
「あら、わざわざ気を使ってくれて、どうもありがとう。
さ、中にお入りになって下さい。」
マルゲリータに勧められるまま、中に通される。
リカルドは店の用事で外出中とのことらしい。
家の中は、隅々まで掃除が行き届いているのだろう、とても清潔感にあふれる雰囲気であった。
そのまま、ダイニングテーブルの置かれた部屋に案内され、席を勧められる。
「少々、おくつろぎになってお待ち下さいね。」
そう告げるとマルゲリータはキッチンの方に去っていった。
テーブルにはシンプルな柄のクロスがかかっており、その上にはティーポットやティーカップ、パンの入ったバスケット等が既に置かれていた。
そしてマルゲリータは次々と料理の皿を運んで来ては、テーブルに並べていく。
スープにサラダ、煮物、焼き物、どれも家庭的な印象を与える料理が、バラエティ豊かに並んでいた。
二人っきりでの食事ということで、最初は緊張していたのだが、軽く会話をしながら、そのとても美味しい料理を食べているうちに、次第に和やかな雰囲気に変わっていった。
これらの料理は全てマルゲリータが自身で作った手料理だということだった。
早くに両親を亡くし、リカルドと二人っきりの生活で、家事は手分けして行っているが、料理はもっぱらマルゲリータの役割であるらしい。
二人の間での会話は、主にピッツァ屋の経営に関するものであったが、俺がリカルドの真面目に取り組む姿勢を褒めると、マルゲリータはまるで自分が褒められたかのように喜んだ。
俺がリカルドにいろいろと指南していることは、マルゲリータも聞かされているようで、そのことについて何度も礼を告げられた。
今日のこの食事会は、これまでの指導とその成果に対する感謝の現れなのだろう、そんな風に受け取れた。
食後の紅茶を飲みながら、そんなことを考えていたのだが、マルゲリータの話にはさらにその先があったのだった。
異世界エンジニア ~チート能力がなくても、現世の知識で生き延びることが出来るか~ タケシ シュナイダー @Takeshi_Schnyder
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