第十二話 「ゆで卵」
壁の正の字は20個になっていた。
その頃、俺の生活にわずかな変化が起きていた。
食事が、前にも増して、不味くなっていたのだ。
豆が生茹でで硬かったり、芋を煮すぎてペースト状になっていたり、塩味が効きすぎていたり、逆になんにも味がついていなかったり。
味に鈍感な(?)奴隷たちも、顔をしかめながら食べていたほどだ。
奴隷たちの食事、まかない飯は、おかみさん(親方の奥さん)か、お嬢さん(若旦那の妹さん)が作ってくれていた。
注意深く観察していると、お嬢さん:クララの料理の時に、その不味い料理が出ていることがわかった。
クララは頻繁に作業場にも顔を出していた。
奴隷たちにもお茶を入れてくれたり、お菓子を持ってきてくれたりした。
気さくに話をしてくれるので、皆から人気があった。
奴隷たちの間でも、話題にのぼることが多かった。
歳は20歳前後らしく、結婚はしていなかった。
誰かとお付き合いをしている様子もないことから、行き遅れになるのでは、と皆から心配されていたりする。
俺はある日、クララの料理当番のときに、思い切って話しかけてみることにした。
「お嬢さん、おはようございます」
「あら、シュン、おはよう。
厨房に顔を出すなんて珍しいわね、どうしたの?
あ、ウフフ、お腹がすいてるのね」
明るくあいさつをしてくれた。
クララは身長はそれほど高くなく、ややふっくらとした体型だが、太っているという程ではない。
それよりも、その豊かな胸が、幼い印象をのあどけない顔と対照的であり、俺もつい無意識に視線を胸にやってしまう。
いかん、いかん。
今朝は麻のシャツにロングスカートで、エプロンを着けていた。
そして綺麗な濃い茶色のロングヘアーは後ろで束ねられていた。
「お嬢さんが作る料理、最近何か変わってきた気がするんですが、何かあったんですか?」
「あら、やっぱりわかっちゃった?
今度、お友達を家に招いて、料理を振る舞おうと思っているんだけどね。
すごい、って言われるような美味しい料理を出したいと思ってるのよ。
だから、いろいろと試行錯誤しているところなの」
「そうだったんですか。
それで、ご自分では、調子はどうなんですか?」
俺は、あえて訊いてみた。
「そうねえ、なかなかうまくいかないの。
イマイチって感じかなあ?」
イマイチじゃない、イマ百ぐらいあるだろう。
俺は、台所に積まれている食材を眺めた。
卵がザルに入っているのが見えた。
時々、ゆで卵が食事に出てくることがある。
いつもカッチカチの固茹でで、殻をむく時に身がくっついて剥きにくいのだ。
なんとか改善してほしいと思っていたところだ。
「ゆで卵の作り方、お教えしましょうか?」
「あらやだ、ゆで卵なんて、何度もつくってるわよ?」
「殻がきれいに剥きやすくて、黄身が半熟のゆで卵ですよ」
クララはとても興味を示したようで、やって見せてくれ、と頼んできた。
「じゃあ、俺がまずやって見せるから、よーく見ていて下さいね。
最初に鍋でお湯を沸かします。
お湯の量は、できるだけ多い方がいいです」
まず、鍋にたっぷり水を注ぎ入れ、かまどにかける。
クララが薪に火をつけてくれる。
その時、クララのなにげない行動に、俺は目を見張った。
彼女に気付かれないように、平静を装いながら。
クララが小声で何事かつぶやくと、何も持たない指先から小さな炎が現れ、薪を燃やし始めたのだ。
俺はこの世界で、以前にも見たことがあった。
エルフのハンター達と森で野営をした時だ。
その時も、エルフがブツブツつぶやいた後、焚き木が燃え始めたのだった。
魔法だ。
この世界には、魔法が存在する。
しかも、エルフという特殊な人種だけでなく、人間の、それも平民の女の子が使えてしまうほどに、一般的に普及しているということだ。
この情報は、俺にとっては大きな収穫だった。
そのうち、折を見て詳しく教えてもらおう、と考えつつ、今はゆで卵の調理に集中する。
「次に、卵にちょっとしたおまじないをします」
俺は壁に刺さっていた画びょうを取って、卵に当てる。
卵は楕円形をしていて、その両端はより尖っている方と、より緩やかな方とがある。
緩やかなカーブになっている方、おしり、とでも呼ぼうか、の方に指す。
「いいかい、卵のおしりの方の殻に、小さい穴を開けるんです」
「ええっ、お尻なの? そこ
ああ、だから穴を開けるのね?」
間違った理解の仕方をしているようだけど、今は放っておく。
「この後、お湯が湧いたらこの卵を鍋に入れるんですけど、正確に時間を測って取り出す必要があるんです。
少しでも長いと、固くなってしまうし、少しでも短いと、白身が固まっていなかったりするんですよ」
「そんなこと言っても、時間なんてどうやって測るのよ。
そんなの無理よ!」
「ちょっと待ってて下さいね」
そう言うと、俺は、作業場から水時計を持ってきた。
水時計はスペアを作ってあったので、そのスペアを台所に持ってきた。
そして、その水時計の使い方を説明する。
俺はだいたい7分を狙って、見当でスジを入れた。
そして、水面がそのスジに達するように水を注ぐ。
「卵を鍋に入れる時は、こんな風にそぉ~っと入れるんですよ」
俺はおたまを使って、卵をお湯が煮えたぎる鍋に入れた。
そして、そのおたまを使って、煮ている間に何度か卵を回転させる。
「こうやって卵を回してあげると、黄身が真ん中に寄ってくれるんです」
「へぇ~、けっこう手間がかかるのね、たかがゆで卵のくせに」
彼女は半熟たまごを完全に舐めている。
卵はお湯で茹でるんじゃない、愛で茹でるんだ。
とか、適当なことを言っておいた。
「この後、時間がきたら卵を取り出して、できるだけ冷たい水で冷やすんですよ。
そうだな、井戸から汲みたてが一番冷たいですね」
俺は井戸に行って桶に水を汲んできた。
そうしているうちに、水時計の水面が下のスジに達した。
おたまで卵をすくって、水の桶に入れる。
充分に冷めるまでしばらく待ってから、卵を彼女に手渡した。
彼女に殻を剥いてもらうように頼むと、殻がポロリと簡単に剥けることに驚いていた。
殻に穴を開けておいたので、殻と白身の間に水が入り込み、殻が剥きやすくなったのだ。
白身の表面がツルツルで、朝日を反射して輝いている。
そして、塩をひとつまみ振りかけて、ひと口勧める。
ゆで卵をかじった小さな口の端から、半熟の黄身が少し、とろりと垂れてくる。
彼女の目は、大きく見開いていた。
「ちょっと、何よこれ!
白身はちゃんと固まっているのに、黄身はトロトロ、クリームみたい!
なんだかコクがあるっていうか、とっても美味しいわ!」
口の中に卵が入っているのに、しゃべるものだから、半熟の黄身が飛んでくる。
汚いなあ。
「お嬢さん、それが半熟たまごっていうものですよ」
「すごい! こんなの、高級なレストランでしか食べたことないよ!」
クララはいたく感動していた。
もっといっぱい作るわ、と意欲を見せている。
「あ、お嬢さん、茹でる時間が一番大切だと、先程言いましたよね。
一度に茹でる卵の数が増えると、お湯の温度が下がってしまうので、茹でる時間を長くする必要があるんでるよ」
「それは、どうやって測ったらいいのかしら?」
「こればっかりは、実際に作ってみて、その結果から調整をしていくしかないんです」
茹で加減が足りなかったら、水時計の水の量を増やす。
上側ののスジをもっと高い位置に引き直すのだ。
茹で過ぎだったら、その逆である。
「茹でる卵の数と茹でる時間、桶の目印の位置のことですね、それと出来上がった卵の黄身の固さ、これを毎回記録して調節していけば、いちばん良い条件を見つけることができるんですよ」
クララにそう説明をすると、彼女は張り切って今日の朝食分のゆで卵を作り始めた。
実験方法を決めてデータを集める。
そうやって最適条件を見つけるんだ。
俺達の美味しい食事のため、頑張ってね、クララ。
クララの目はキラキラ輝いて見えた。
そしてにこやかに微笑みながら、俺の側に歩み寄り、少し背伸びをすると、俺の頬に軽いキスをしてくれた。
その柔らかい唇の感触とともに、俺の腕にあたる胸の柔らかさに、俺は年甲斐もなく顔を赤くしてしまった。
「シュン、また料理教えてね?」
クララは変わらず、屈託のない笑顔だ。
「あ、ああ、もちろん、朝飯前ですよ」
「そうよね、早く朝ごはん作らないとね!」
それから数日は、毎朝ゆで卵が出てきた。
時には白身が固まっていなかったり、時には固茹でになっていたりしたが、しまいには完璧な半熟ゆで卵が出されるようになった。
ものづくり的に言うと、製造条件が固まった、ということである。
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