沙本毘古王の反逆 1
また、夢を見た。
最近は特に、夢見が悪い。
他の夢を見た試しがないし、夢の内容はど んどん暗転していく。
正直、見ていて辛い。
霞む目をこするとやはり涙がこぼれた。
佐保の桜を見ることが無くなり、泣かずに済むようになったというのに、今度はこの有様だ。
何とか解決したいところではあるが。
「古事記を読んでみるのは嫌だな。」
杉本君が持っていたクジラさん文庫の1冊を思い出す。
読むのも億劫だが、何より、夢のままのことが書かれているのが怖い。
自分が翻弄されてしまいそうな気がする。
プラシーボ効果のように、その気になってしまって、どんどん深みにはまってしまう気がするのだ。
私はホラーはめっきりダメである。
そんな非科学的なことは信じない、と言ってはいるものの、とにかく怖いものは怖い。
肝試しやお化け屋敷に足を踏み込むことすら断固拒否する正真正銘の怖がりなのだ。
そんな私が、古事記そのままの夢を見ているなんて考えたくない。
日常のまま、この穏やかな春の日差しのような、とろんとした毎日で充分なのだ。
夢のことを書きとめるのは初めこそ楽しかったが、今ではすっかりご無沙汰。
3日坊主、というわけではなく、文字に書けば書くほど、記憶に残ってしまいそうで怖い。
いつか古事記と照らし合わせた時に、もし同じことが書いてあったらと思うと恐ろしくて筆が取れない。
その影響か、文芸部の作品も中途半端に推敲を重ねたまま手を付ける気にならない。
文芸誌も咲かない桜も、締め切りは迫ってきているというのに。
「思い切って杉本君に内容を聞いてみようかな。」
彼の口から聞くのなら、そんなに怖くない気がした。
学校に部活よりも早めに行く。
図書館に顔を出せば、やはり杉本君がいた。
相手も気づいたようで、会釈してくれる。
私はこの前彼がしたように、机を挟んで向かいに腰を下ろした。
ここからは窓の向こうの桜が見える。
つまり、杉本君からは見えない。
やはり彼も、なかなか習慣が抜けないのだろう。
そして実際、彼の言ったとおりだった。
「杉本君の言った通り、佐保以外の桜には反応しなかったよ。
桜涙病。」
その報告に杉本は穏やかに微笑む。
「でしょう。
春満喫していますか?」
「うん、まぁ、ね。」
通学途中、車窓から桜を眺められるというのは、それだけで心が温かく、うきうきとしてしまう。
「桜の調べ物ですか?」
「うん、似たようなこと。」
私は曖昧に頷いた。
これは私の問題だ。
咲かない桜は関係ない、はずである。
「昨日言っていた、
そう言えば杉本君は驚くこともなく、むしろ嬉しそうに笑った。
「良いですよ。
興味を持ってもらえて嬉しいです。」
鞄の中から一冊のクジラさん文庫を取り出す。
タイトルを見なくても分かる。
古事記だ。
「垂仁天皇の時代です。」
ぱらぱらとめくられたページが、私の方を向けて開かれた。
図書室には私と杉本君以外、誰もいない。
少しくらい話しても、司書の先生の怒りを買うことはないだろう。
「ここからです。」
彼の指は、昨日指したのと同じところを示している。
私は無意識に唾を飲み込んだ。
杉本君は本を自分の方に向けなおした。
「簡単に説明しますね。
垂仁天皇が
『夫と兄と、どちらが愛しいか。』
『兄を愛しく思います。』
と答えました。
そこで、
『本当に私を愛しいと思うのならば、私とお前で天下を治めようと思う。』
そして鍛え上げた懐剣を妹に渡すのです。
『この小刀で、天皇が寝ているところをお刺し申せ。』」
淡々と語られる物語は、確かに大方は夢の通りだ。
「それしか書いていないの?」
「どういうことですか?」
杉本君がじっと私の目を見た。
私が見た夢はもっと細かいところまであった。
兄の思い、狭穂姫の思い、
でも、そんなことは言えるはずはない。
「いや、ざっくりしたお話なんだな、と思って。」
「文学性は高いと言っても、これは文学ではなく、あくまで歴史書というスタンスで書かれていますから。」
「なるほど。」
「続き行きますよ。
天皇はそんなことは御存じなく、皇后様の膝枕で寝ておられました。
そこで皇后さまが小刀を持って天皇の首を刺そうと3度も振り上げたけれど、耐えきれなくなって、涙をこぼしてしまうのです。
すると天皇が目を覚まされてお尋ねになった。
『おかしな夢を見たのだ。
沙本のほうから村雨が降ってきて、急に顔が濡れた。
また、錦色の蛇が私の首に巻きついた。
このような夢はどのようなしるしなのだろう。』」
話は一度そこで止まった。
「
戸売って言うのは姫よりも力の強い人のことを指すそうです。
そんな戸売から生まれた
だからこそ天皇は彼女に尋ねたんです。」
違う、彼女は強い力なんて持ってはいなかった、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
杉本君は再び本に目を落とした。
「言い訳もできないだろうと思った皇后は、全てを話します。
兄に聞かれて、兄が愛おしいと答えてしまったこと。
その兄が、天皇を殺すよう命じ、小刀を渡したこと。
天皇を刺そうとしたが、どうしても刺せず、涙がこぼれて顔に掛かったこと。
そしてそれが夢で知らされたのだろうということ。」
机の下で握りしめた手は、昨日と同様に変な汗をかいていて気持ち悪い。
「これを聞いて天皇は、
『私はあと一歩でだまされるところだった。』
とおっしゃって、すぐに軍を集め、
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